承継
この追悼サイトは、 山岡 荘八(歴史小説家、代表作・徳川家康)さまのために作成されました。

享年71歳 、誕生日 1907年1月11日、命日 1978年9月30日
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山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年明治40年)1月11日 - 1978年昭和53年)9月30日)は、日本小説家歴史小説を中心に活躍。本名は藤野庄蔵(ふじの しょうぞう)。徳川家康』により第2回吉川英治文学賞を受賞。日本を守る会の代表委員を務めた[1]

自由党衆議院議員山岡賢次は養子[2]立憲民主党衆議院議員の山岡達丸は孫。

来歴[編集]
160px-Yamaoka_Sohachi.jpg経済展望社『経済展望』第30巻第11月号(1958年)より160px-Sohachi-Yamaoka-1.jpg徳川家康』連載再開の意気込みを語る山岡荘八(1963年)250px-Shosetsu-Club-1965-January-1.jpg右から山内一史(山岡の長男)、山岡荘八、山岡道枝(山岡の妻)、山内幹雄(一史の子)、山内政枝(一史の妻)、山内稚子(山岡の長女)。1964年頃に撮影。新潟県北魚沼郡小出町(現:魚沼市)の山内家に生まれる。1918年、川で泳いでいて前額部を強打、瀕死の重傷を負い後々までこぶとして残る。1920年高等小学校を中退して上京、博文館印刷所で文選工として働きつつ逓信省の研究所に学ぶ。1924年より印刷・製本業を始め、1932年、萬里閣に入社し、雑誌『ギャング』を編集、『変態銀座デカメロン』を連載。1933年、後妻として迎えた妻の実家である加賀安宅(現、石川県小松市)の藤野家に入り、以後、藤野姓を名乗る。妻は筆名山岡道枝。長谷川伸に入門、山岡荘八の筆名を用いる。

1938年に「約束」で「サンデー毎日大衆文芸」入選。長谷川伸の新鷹会に入会。1939年初の著書『からゆき軍歌』を上梓。1942年に従軍作家となり、戦時中は従軍作家として各戦線をまわり、時局的な小説を発表した[3]。『海底戦記』その他で野間文芸奨励賞受賞。

戦後、公職追放となるが、1950年10月13日に解除[4]。同年より「北海道新聞」に『徳川家』を連載、のち「中部日本新聞」「神戸新聞」などに拡大。1953年11月より単行本の刊行が始まり、ベストセラーとなる。

1958年10月4日から岸信介首相、藤山愛一郎外相、ダグラス・マッカーサー2世大使らは日米合同委員会を開き、安保条約改定の交渉を開始した[5][6]。交渉が進むにつれ、安保条約改定反対の声も高まっていくが、岸政権を批判する新聞七紙の投書欄に憤りを感じた山岡は、以前から書きたかった「政治小説」の第一作の主人公に岸を選ぶことを思い付く。1959年5月10日、実名小説『小説岸信介』を上梓した[7]

1958年中日文化賞を受賞。1963年新鷹会理事に就任。1966年、文壇長者番付一位となった。

1967年に『徳川家康』が完結し、長谷川伸賞受賞、昌平黌短期大学名誉学長。1968年『徳川家康』により、第2回吉川英治文学賞を受賞。1973年紫綬褒章受章。

1978年9月30日、ホジキンリンパ腫に急性肺炎を併発し、東京都豊島区上池袋癌研究会総合病院で死去。71歳没。戒名は山岡院釈荘八真徳居士[8]。没後、従四位勲二等瑞宝章。

映画[編集]
TVドラマ[編集]
山岡荘八文学碑

魚沼市出身の小説家で代表作には「徳川家康」など数々の作品を創り上げています。小出公園内の文学碑には「菊ひたしわれは百姓の子なりけり」と平和と生命尊重の想いが刻まれています。    山岡荘八文学碑  新潟県魚沼市向山 小出公園内

※注:このサイトは、山岡荘八に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年7月26日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
歴史小説を通して、日本人の有り様を描いた大家です。 映画やテレビドラマで有名な作品も多いです。     合掌

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このメッセージは、 2024年7月26日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
歴史小説を通して、日本人の有り様を描いた大家です。 映画やテレビドラマで有名な作品も多いです。     合掌