この追悼サイトは、 夏目 漱石(近代日本文学の文豪、代表作「坊っちゃん」など)さまのために作成されました。
享年49歳 、誕生日 1867年2月9日、命日 1916年12月9日
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夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の小説家、英文学者。武蔵国江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)出身。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。
明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人。代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した官僚出身の政治家中村是公の親友としても知られる。
翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをした。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道岩内町に籍を移した[5]。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始めた。
1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任した[10]。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。
1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任した(月給100円)。親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていった。
1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をした。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた[11]。
1907年(明治40年)6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられた。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走した(塩原事件)。
1912年(大正元年)9月、痔の再手術を受けた。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶した。
1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされた。
1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。晩年は病との闘いを続けながらの執筆が続いた。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
夏目漱石の墓 東京都豊島区南池袋4-25-1 雑司が谷霊園
墓所番号:1種14号 1側3番
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享年49歳 、誕生日 1867年2月9日、命日 1916年12月9日
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夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の小説家、英文学者。武蔵国江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)出身。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。
明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人。代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した官僚出身の政治家中村是公の親友としても知られる。
帝国大学に入学[編集]
帝国大学時代の漱石(1892年12月)1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この英文科は明治20年に新設されたばかりで、明治23年に入学したのは漱石だけで、2年上に先輩が1人いるだけであり、3年後輩に土井晩翠がいる[4]。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをした。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道岩内町に籍を移した[5]。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始めた。
1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任した[10]。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。
1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任した(月給100円)。親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていった。
1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をした。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた[11]。
イギリス留学[編集]
1900年7月頃[12]、イギリス留学に当たり熊本市冨重写真館で撮影した送別写真[13]。前列右が漱石、左が奥太一郎、後列左が遠山参良、右は五高生徒木村鎮太[12]。ロンドン滞在時の夏目漱石の最後の家。ランベス区#関係者も参照1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられた。9月10日に日本を出発[14]。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始めた。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などを執筆[編集]
千駄木邸書斎の漱石(1906年)1904年(明治37年)の暮れ、高浜虚子から神経衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博した。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆した。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていった。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。1907年(明治40年)6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられた。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走した(塩原事件)。
『三四郎』『それから』『門』の前期三部作[編集]
『漱石全集第八巻 行人』より(1912年10月)1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』の後期三部作[編集]
早稲田南町の邸宅「漱石山房」における晩年の漱石(1915年7月)1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。1912年(大正元年)9月、痔の再手術を受けた。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶した。
1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされた。
1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。晩年は病との闘いを続けながらの執筆が続いた。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
- 小説
- 吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』/1905年10月 - 1907年5月、大倉書店・服部書店)
- 坊つちやん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
- 草枕(1906年9月、『新小説』/『鶉籠』収録)
- 二百十日(1906年10月、『中央公論』/『鶉籠』収録)
- 野分(1907年1月、『ホトトギス』/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
- 虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』/1908年1月、春陽堂)
- 坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』/『草合』収録)
- 三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』/1909年5月、春陽堂)
- それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』/1910年1月、春陽堂)
- 門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』/1911年1月、春陽堂)
- 彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』/1912年9月、春陽堂)
- 行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
- こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)
- 道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』/1915年10月、岩波書店)
- 明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』/1917年1月、岩波書店)
短編小説・小品
[編集]- 倫敦塔(1905年1月、『帝国文学』/1906年、大倉書店・服部書店刊『漾虚集』収録)
- 幻影の盾(1905年4月、『ホトトギス』/『漾虚集』)
- 琴のそら音(1905年7月、『七人』/『漾虚集』収録)
- 一夜(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
- 薤露行(かいろこう)(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
- 趣味の遺伝(1906年1月、『帝国文学』/『漾虚集』収録)
- 文鳥(1908年6月、『大阪朝日』/1910年、春陽堂刊『四篇』収録)
- 夢十夜(1908年7月 - 8月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
- 永日小品(1909年1月 - 3月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
夏目漱石の墓 東京都豊島区南池袋4-25-1 雑司が谷霊園
墓所番号:1種14号 1側3番
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