承継
この追悼サイトは、 岡本 寿美子さまのために作成されました。

享年75歳 、誕生日 1929年10月7日、命日 2005年1月21日
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このメッセージは、 2022年8月21日に、陽一梶間さんが投稿
平成17年1月21日午前4時34分、母は私と医師、看護師の見守る中、眠るように息を引き取りました。
大晦日、元旦と無事に年を越し、待望の雪景色を見、元旦の朝には起きて、御節と雑煮を食べました。その後、多数の方のお見舞いを受け、幸せな毎日を過ごすことができました。母の望みどおり、友人の方々の献身的なご協力の中で、無事家で看取ることができました。最後は手を握りながら「良くがんばったね、もうすぐ楽になるからね、いろいろありがとう。」と言葉をかけますと、母は安心したように目を閉じ、安らかに永眠いたしました。これも皆様方のご協力とご厚情の賜であると深く感謝しております。
ここに母の思い出として、告別式で述べさせていただいた言葉を記して、御礼の言葉とさせていただきます。    岡本寿美子 長男 梶間 陽一

お別れの言葉
つい先日、あなたは「世界で一番幸せ」と言ってくださいました。それがあなたの優しさ、強さ、偉大さであると思いました。死の床に伏していながら、あなたは自分が世界で一番幸せであると感じることができたのです。
このことは、人間の持っている高貴な魂についても教えてくれます。人が死んであの世に行くとき、持って行けるものは、今生で出会った多くの友人や隣人の方々からいただいた「愛」だけなのです。この愛の思い出を携えてあなたは天上界へ帰られました。
あなたの人生は本当に波乱万丈でしたね。幼い頃に母を亡くし、父の事業が失敗し、兄と二人で親戚の家をたらいまわしになり、とてもつらい思いをし、やっと父に引き取られ女学校に通っている頃には、あの忌まわしい第二次世界大戦が始まり、東京大空襲で父を亡くしたそうですね。その後、みなし子となった兄妹は、多大な困難を潜り抜けて生き抜いてきたのですね。でも成人したあなたの若い頃の写真は、そんな苦労を微塵も感じさせない天衣無縫の笑顔に輝いていますね。そこがあなたの素晴らしいところだと思います。
今日、このお別れ会に参加してくださった皆様も、そうした強さと優しさに好感をもって、ご厚情を賜ったものと思い、深く感謝しております。
どんな時でも絶やさない笑顔、常に他者を思いやる利他の心、他者の痛みを感じる心、息子の私にさえ常に「ありがとう」の言葉を忘れない感謝の心、たとえ死の床にあっても幸せを感じられる純真な心、こうした人間として最も徳高き生き方を私は見てきました。あなたは生き方を通して、私を導き、教え、育んでくださいました。本当にありがとうございました。
いつまでも天上界で見守っていてください。そして幸福で安らかな時をお過ごしください。私もいつかそちらへ帰ったら、またお会いしましょうね。
お母さんへ  陽一より    平成17年1月23日

メッセージの投稿

 
メッセージ
このメッセージは、 2022年8月21日に、陽一梶間さんが投稿
平成17年1月21日午前4時34分、母は私と医師、看護師の見守る中、眠るように息を引き取りました。
大晦日、元旦と無事に年を越し、待望の雪景色を見、元旦の朝には起きて、御節と雑煮を食べました。その後、多数の方のお見舞いを受け、幸せな毎日を過ごすことができました。母の望みどおり、友人の方々の献身的なご協力の中で、無事家で看取ることができました。最後は手を握りながら「良くがんばったね、もうすぐ楽になるからね、いろいろありがとう。」と言葉をかけますと、母は安心したように目を閉じ、安らかに永眠いたしました。これも皆様方のご協力とご厚情の賜であると深く感謝しております。
ここに母の思い出として、告別式で述べさせていただいた言葉を記して、御礼の言葉とさせていただきます。    岡本寿美子 長男 梶間 陽一

お別れの言葉
つい先日、あなたは「世界で一番幸せ」と言ってくださいました。それがあなたの優しさ、強さ、偉大さであると思いました。死の床に伏していながら、あなたは自分が世界で一番幸せであると感じることができたのです。
このことは、人間の持っている高貴な魂についても教えてくれます。人が死んであの世に行くとき、持って行けるものは、今生で出会った多くの友人や隣人の方々からいただいた「愛」だけなのです。この愛の思い出を携えてあなたは天上界へ帰られました。
あなたの人生は本当に波乱万丈でしたね。幼い頃に母を亡くし、父の事業が失敗し、兄と二人で親戚の家をたらいまわしになり、とてもつらい思いをし、やっと父に引き取られ女学校に通っている頃には、あの忌まわしい第二次世界大戦が始まり、東京大空襲で父を亡くしたそうですね。その後、みなし子となった兄妹は、多大な困難を潜り抜けて生き抜いてきたのですね。でも成人したあなたの若い頃の写真は、そんな苦労を微塵も感じさせない天衣無縫の笑顔に輝いていますね。そこがあなたの素晴らしいところだと思います。
今日、このお別れ会に参加してくださった皆様も、そうした強さと優しさに好感をもって、ご厚情を賜ったものと思い、深く感謝しております。
どんな時でも絶やさない笑顔、常に他者を思いやる利他の心、他者の痛みを感じる心、息子の私にさえ常に「ありがとう」の言葉を忘れない感謝の心、たとえ死の床にあっても幸せを感じられる純真な心、こうした人間として最も徳高き生き方を私は見てきました。あなたは生き方を通して、私を導き、教え、育んでくださいました。本当にありがとうございました。
いつまでも天上界で見守っていてください。そして幸福で安らかな時をお過ごしください。私もいつかそちらへ帰ったら、またお会いしましょうね。
お母さんへ  陽一より    平成17年1月23日
軌跡

随筆  「時(とき)」     岡本寿美子          

絶え間なく流れる時、誰にも平等に流れる時を、ことさらに身近く感じて生きてきたように思う。
昭和二十年一月の末、東京を襲った初の空襲が父を奪った。兄が十六才、私が十五才の時である。母はすでに他界し、父子三人暮らしであった。被害のあった方面へ出掛けたまま帰らぬ父を探し、見知らぬ街の病院、交番のあちこちを尋ね、駆けずり廻る。
身も心もボロボロになって家路をたどる道すがら、生きていてほしい、今頃無事帰って夕飯の支度をしているのでは、などと一縷の望みを期待した。だが冬の窓は寒々と暗かった。
この暗いタイムトンネルから一刻も早く抜け出たい。焦燥感だけが先走る。探し尋ねて三日目、その街の公会堂で遺留品により、父の死を確認した。が遂に遺体には逢えずじまいだった。暗く澱んだあの日々は流れることなく、今もなお胸の奥深くとどまっている。
二月初めの大雪の日、父の遺骨を貰いに行った。ぼたん雪が寺の境内を真白に覆いつくしていたことだけが、妙に灼きついている。今日でも雪が降ると、あの境内の白い“刻”が音をたてて逆流してくる。
戦争が終わって行く宛のない私達は、遺骨を背負い地図を頼りに父の故郷へむかった。京都市内からのバスは、戦中没収されたままで三十粁の山越えを余儀なくされた。道中雨に遭ったが黙々と歩き続ける。渓谷と山林に囲まれた夜の峠路は、ふり返るさえ無気味で何度も足がすくんだ。深夜暫く父の生家へたどり着く。ずぶ濡れと疲労で、その夜高熱を出したのを記憶している。
父は、代々天理教であるのを厭い十七才で出奔、苦労の末事業を為し得たが、それなりに生家の人達と疎遠だった事と、加えて複雑な事情が搦み、私達は招かれざる雰囲気に一週間程で戦後の東京へ引返した。父は先祖の片隅に埋葬して貰い、肩の荷を降ろす事が出来た。
激動の東京での厳しさは、一言ではいい尽くせないものがあった。苦しい現実から逃れるすべもなく、ただひたすら流れる時に救を求めながら、自己を失うまいと必至の歳月を重ねてきた。大阪、京都と離ればなれにあった父母をこの春の彼岸を機に川越の墓園に迎える運びとなり、それぞれの生家を何十年ぶりかで訪れた。母方では“祖母”も母に近い人達もこの世になく、祖母が生前守り続けてくれた遺牌と古びた一葉の写真を貰い受けてきた。京の里も同様に、時代の移り変りは如実であった。古めかしいものはことごとく遠い昔へと時が運び去り、父母につながる淡い思い出も更に淡いものになってしまった。生れ故郷から全く思いも及ばぬ地へ運ばれてきた、父母の望郷のつぶやきがきこえてくるような気もするが、それも時が解決して永久のやすらぎを得てほしいと願っている日日である。
報告

母と俳句

陽一梶間さんが2022年8月22日に投稿
「私にとって俳句とは、近づいて来たかに見えてするりと体をかわす怪物のようにさえ思える。何度も投げ出そうと思い乍も、浮きつ沈みつの長い歳月を費やした。俳句に関わって何年と問われるのが一番つらいが、今では私から俳句を取ったら何が残る、と思うほど体の一部になってしまった感じです。」

母の辞世の句

燃えながら ストンと落ちる 冬陽かな    寿美子

返句

雪化粧 母と見る暮れ 焼きつけて      陽一

河村 四響 選(母の参加していた句会・けやき句会の師匠)

息子褒め 目もとしわしわ 寒に入る

山茶花や 息子三十歳 正念場

母の手の 記憶もたざる 冬すみれ

臍の緒の つくづく乾び 秋立ちぬ

栗名月 息子の耳は 馬の耳

水仙の つぼみを孕み 肝の臓

子のように おんおん泣いて 天の川

冬銀河 死に際はずす 耳飾り