この追悼サイトは、 池波 正太郎(戦後の日本を代表する時代小説・歴史小説作家)さまのために作成されました。
享年67歳 、誕生日 1923年1月25日、命日 1990年5月3日
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池波 正太郎(いけなみ しょうたろう、1923年〈大正12年〉1月25日 - 1990年〈平成2年〉5月3日)は、戦後の日本を代表する時代小説・歴史小説作家。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、映画評論家としても著名であった。映画ではとりわけフランス映画の名作、とりわけフィルム・ノワールを好み、監督ではジュリアン・デュヴィヴィエや俳優ジャン・ギャバンを敬愛している他、美食家(食通)として多くのエッセイを著している[2]。
正太郎は母に引き取られ、浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校(後の台東区立西町小学校。1998年に閉校)に転入した。祖父・今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがった。この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたが、不縁となり、実家に戻った。この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。小学校時代の正太郎は図画を得意とし、将来は日本画家鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの剣劇映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しんでいた。
1935年(昭和10年)、西町小学校を卒業。担任教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。親戚の伝手によって最初は株式現物取引店・田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店・松島商店に入り、以後、1942年(昭和17年)に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で勤務す。チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し月給を上回る収入を得ていた。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、吉原でも遊蕩した。特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、歌舞伎・新国劇・新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために長唄まで習っていた。
1948年(昭和23年)には習作を手に初めて長谷川伸を訪問。翌年より本格的に劇作を師事し、門下の批評会「二十六日会」にも参加した。この前後の習作に『牡丹軒』『手』『蛾』など。『手』は新国劇での上演が検討された。1950年(昭和25年)、片岡豊子と結婚し、借家して所帯を持ったが、間もなく申しこんでいた住宅抽選に当選し、新国劇で上演された『鈍牛』の上演料などで新居を建てた。以後、座付作者といわれるほどに新国劇と関係を深めた正太郎は、辰巳柳太郎・島田正吾らに『檻の中』(1952年)、『渡辺華山』(1953年)などを提供する一方で、長谷川の強い勧めによって小説でも、新鷹会の雑誌「大衆文芸」に『厨房にて』(1954年)などの作品を発表した。
1960年(昭和35年)、「オール讀物」6月号に発表した『錯乱』によって直木賞(上期)を受賞した[3]。長谷川はわがことのように喜び、少年期から愛読者だった大佛次郎より賞を手渡された。受賞後も数年は『清水一角』『加賀騒動』などの脚本を書き、『北海の男』(「オール讀物」60年10月号)、『鬼坊主の女』(「週刊大衆」同年11月7日号)、『卜伝最後の旅』(「別冊小説新潮」61年1月号)、『色』(「オール讀物」同年8月号)、『火消しの殿』(「別冊小説新潮」62年1月号)、『人斬り半次郎』(「アサヒ芸能」同年10月28日号 - 64年1月26日号)、『あばた又十郎』(「推理ストリー」63年1月号)、『さむらいの巣』(「文芸朝日」同年6月号)、『幕末新撰組』(「地上」同年1月号 - 64年3月号)、『幕末遊撃隊』(「週刊読売」同年8月4日号 - 12月29日号)など、初期代表作の小説を次々と発表、このうち『色』は『維新の篝火』(1961年)の題名で直ちに映画化された。一方で劇作家として、1963年(昭和38年)に子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになった。新国劇のありかたへの疑問や正太郎の一徹さからくる周囲との軋轢が原因であった。同年6月11日、師・長谷川伸が没し、これを契機として二十六日会・新鷹会などを退会し、以後はいかなる団体にも属さず執筆をつづけた。
享年67歳 、誕生日 1923年1月25日、命日 1990年5月3日
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池波 正太郎(いけなみ しょうたろう、1923年〈大正12年〉1月25日 - 1990年〈平成2年〉5月3日)は、戦後の日本を代表する時代小説・歴史小説作家。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、映画評論家としても著名であった。映画ではとりわけフランス映画の名作、とりわけフィルム・ノワールを好み、監督ではジュリアン・デュヴィヴィエや俳優ジャン・ギャバンを敬愛している他、美食家(食通)として多くのエッセイを著している[2]。
正太郎は母に引き取られ、浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校(後の台東区立西町小学校。1998年に閉校)に転入した。祖父・今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがった。この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたが、不縁となり、実家に戻った。この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。小学校時代の正太郎は図画を得意とし、将来は日本画家鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの剣劇映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しんでいた。
1935年(昭和10年)、西町小学校を卒業。担任教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。親戚の伝手によって最初は株式現物取引店・田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店・松島商店に入り、以後、1942年(昭和17年)に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で勤務す。チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し月給を上回る収入を得ていた。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、吉原でも遊蕩した。特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、歌舞伎・新国劇・新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために長唄まで習っていた。
終戦まで[編集]
1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が開戦、翌年に勤労動員により、松島商店を退職し国民勤労訓練所に入所。同年には芝浦・萱場製作所に配属され、ここで旋盤機械工としての技術を学んだ。所長の意向ではじめ経理を担当する予定であったものが、池波本人のたっての望みで現場担当となり、上司の丁寧な指導もあって数か月間で技術を習熟した。この間には「婦人画報」の朗読文学欄にスケッチなどを投稿、また「休日」で選外佳作(1943年5月号)、「兄の帰還」で入選(同7月号)、「駆足」で佳作入選(同11月号)、「雪」で選外佳作(同12月号)。「兄の帰還」で賞金50円を得て、これが自身初めての原稿収入となった。1948年(昭和23年)には習作を手に初めて長谷川伸を訪問。翌年より本格的に劇作を師事し、門下の批評会「二十六日会」にも参加した。この前後の習作に『牡丹軒』『手』『蛾』など。『手』は新国劇での上演が検討された。1950年(昭和25年)、片岡豊子と結婚し、借家して所帯を持ったが、間もなく申しこんでいた住宅抽選に当選し、新国劇で上演された『鈍牛』の上演料などで新居を建てた。以後、座付作者といわれるほどに新国劇と関係を深めた正太郎は、辰巳柳太郎・島田正吾らに『檻の中』(1952年)、『渡辺華山』(1953年)などを提供する一方で、長谷川の強い勧めによって小説でも、新鷹会の雑誌「大衆文芸」に『厨房にて』(1954年)などの作品を発表した。
小説家へ[編集]
1955年(昭和30年)1月、劇作における代表作のひとつ『名寄岩』が上演され、自ら演出をも行った。これにより文筆によって立つ自信を得て、都職員を退職(あえて昇進を断り、外回りの職に徹しており、この時期は目黒税務事務所で収税を行っていた)。翌年には『牧野富太郎』、井上靖原作の『風林火山』『黒雲谷』『賊将』など、新国劇で作品を次々と上演する一方、「大衆文芸」誌に定期的に小説を寄せつづけた。初期には現代ものの作品が多かったが、1956年11月・12月号に分載した『恩田木工(真田騒動)』によって、歴史小説・時代小説を執筆活動の中心に据えるようになった。『恩田木工』は翌年、56年下期の直木賞候補となるものの落選。以降劇作と平行して着実に小説の執筆をつづけ、1959年(昭和34年)9月には処女作品集『信濃大名記』を光書房から上梓する。この間『眼』(57年上期)、『信濃大名記』(同下期)、『応仁の乱』(58年下期)、『秘図』(59年上期)で計5回直木賞候補となるも、選考委員であった海音寺潮五郎の酷評もあり受賞には至らなかった。私生活では1958年(昭和33年)暮れ、出征直前に名古屋で会って以来音信不通になっていた父と久々の再会を果たした。正太郎は母とともに同居することを勧めたが、聞き入れられることはなかった。1960年(昭和35年)、「オール讀物」6月号に発表した『錯乱』によって直木賞(上期)を受賞した[3]。長谷川はわがことのように喜び、少年期から愛読者だった大佛次郎より賞を手渡された。受賞後も数年は『清水一角』『加賀騒動』などの脚本を書き、『北海の男』(「オール讀物」60年10月号)、『鬼坊主の女』(「週刊大衆」同年11月7日号)、『卜伝最後の旅』(「別冊小説新潮」61年1月号)、『色』(「オール讀物」同年8月号)、『火消しの殿』(「別冊小説新潮」62年1月号)、『人斬り半次郎』(「アサヒ芸能」同年10月28日号 - 64年1月26日号)、『あばた又十郎』(「推理ストリー」63年1月号)、『さむらいの巣』(「文芸朝日」同年6月号)、『幕末新撰組』(「地上」同年1月号 - 64年3月号)、『幕末遊撃隊』(「週刊読売」同年8月4日号 - 12月29日号)など、初期代表作の小説を次々と発表、このうち『色』は『維新の篝火』(1961年)の題名で直ちに映画化された。一方で劇作家として、1963年(昭和38年)に子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになった。新国劇のありかたへの疑問や正太郎の一徹さからくる周囲との軋轢が原因であった。同年6月11日、師・長谷川伸が没し、これを契機として二十六日会・新鷹会などを退会し、以後はいかなる団体にも属さず執筆をつづけた。
主な刊行作品一覧[編集] 『
- 『竜尾の剣』東方社 1960
- 『錯乱』文藝春秋新社 1960 のち春陽文庫 - 短編集
- 『応仁の乱』東方社 1960
- 『真田騒動 恩田木工』東方社 1960 のち新潮文庫 - 短編集
- 『眼(め)』東方社 1961
- 『夜の戦士』東方社 1963
- 『人斬り半次郎』東方社 1963 「人斬り半次郎 幕末編」角川文庫、新潮文庫
- 『人斬り半次郎 賊将編』学習研究社 1970 のち角川文庫、新潮文庫
- 『幕末遊撃隊』講談社 1964 「剣士伊庭八郎」、原題で集英社文庫
- 『賊将』東方社 1964 のち新潮文庫、角川文庫 - 短編集
- 『幕末新選組』文藝春秋新社(ポケット文春)1964 のち文庫
- 『真説・仇討ち物語』アサヒ芸能出版(平和新書)1964 「仇討ち物語」春陽文庫 - 短編集
- 『忍者丹波大介』新潮社 1965 のち文庫、角川文庫
- 『火の国の城』文藝春秋 1971 のち文庫(丹波大介もの)
- 『娼婦の眼』青樹社 1965 のち講談社文庫
- 『青空の街』青樹社 1965 のち集英社文庫
- 『信長と秀吉・関ケ原の決戦』(物語日本史 6)学習研究社 1967 「信長と秀吉と家康」PHP文庫
- 『西郷隆盛』(近代人物叢書)人物往来社 1967のち角川文庫
- 『堀部安兵衛』徳間書店 1967 のち角川文庫、新潮文庫
- 『スパイ武士道』青樹社 1967 のち集英社文庫
- 『さむらい劇場』サンケイ新聞出版局 1967 のち新潮文庫
- 『忍者群像』東都書房 1967 のち角川文庫、文春文庫 - 短編集
- 『卜伝最後の旅』人物往来社(歴史小説選書)1967 のち角川文庫、「上意討ち」新潮文庫 - 短編集
- 『にっぽん怪盗伝』サンケイ新聞社出版局 1968 のち角川文庫 - 短編集
- 『仇討ち』毎日新聞社 1968 のち角川文庫 - 短編集
- 『炎の武士』東方社 1968 のち角川文庫 - 短編集
- 『武士の紋章 男のなかの男の物語』芸文社 1968 のち新潮文庫 - 短編集
- 『鬼平犯科帳』シリーズ 文藝春秋 のち文庫(初期解説は植草甚一)
- 鬼平犯科帳 1968 その他、多数
池波正太郎記念文庫 時代小説の傑作を多数発表した池波正太郎の業績や作品の世界を広く伝えるために、平成13年(2001)開設された「池波正太郎記念文庫」は、作品に関するさまざまな資料を収蔵し、書斎の復元や著作・自筆原稿・絵画等の一部を常時展示している。また時代小説コーナーも設けられている。
※注:このサイトは、池波正太郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝メッセージの投稿
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