この想いでサイトは、 西郷 隆盛さまを永遠に承継するために作成されました。
享年49歳 、誕生日 1828年1月23日、命日 1877年9月24日
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本名:西郷 隆盛(さいごう たかもり)
戒名:南州寺殿威徳隆盛大居士
墓地:鹿児島県鹿児島市・南洲墓地
西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体: 西鄕 隆盛、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人[1]。
薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職[2]。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務した[3]。明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し[4]、帰国した大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野[5][6]、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動[7]から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。
身体的特徴[編集]身長は五尺九寸八分(約180cm)[113]、体重は二十八貫(約105kg)[112]と伝わっている[114]。遺品の陸軍大将大礼服(鹿児島市維新ふるさと館収蔵)を、巡業に来た東西両横綱が試しに着てみたが、少しだぶつく大形で、特に肩幅が広く、首も大きく、カラーも十九半形を用いていたという[要出典]。
大隈重信 「身始末は宜かった。身体は彼の通の大兵肥満で、この節散髪した西ノ海にも譲らぬ。人格は世間で大西郷と呼ぶ程な堂々たる英雄であるが、さればとて着物などには普通に小薩張したものを着、汚れたものなどは着けぬ。勿論綺麗な物を着た訳ぢゃ無いが、といって決して弊縕袍を着ては居らぬ。ただ自己の地位からみれば、御粗末な物だというだけで、おもに木綿物を用いて居った。それをダラシなく着こなして居たよ。まず相撲取りという可きだったろう」[115]
喫煙者であるが、酒は弱く下戸であったと伝わっている[要出典]。
思想[編集]
西郷南洲顕彰館 鹿児島市上竜尾町2-1
西南戦争で西郷隆盛が最後に立てこもった洞窟
享年49歳 、誕生日 1828年1月23日、命日 1877年9月24日
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本名:西郷 隆盛(さいごう たかもり)
戒名:南州寺殿威徳隆盛大居士
墓地:鹿児島県鹿児島市・南洲墓地
関連リンク
西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体: 西鄕 隆盛、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人[1]。
薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職[2]。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務した[3]。明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し[4]、帰国した大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野[5][6]、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動[7]から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。
身体的特徴[編集]身長は五尺九寸八分(約180cm)[113]、体重は二十八貫(約105kg)[112]と伝わっている[114]。遺品の陸軍大将大礼服(鹿児島市維新ふるさと館収蔵)を、巡業に来た東西両横綱が試しに着てみたが、少しだぶつく大形で、特に肩幅が広く、首も大きく、カラーも十九半形を用いていたという[要出典]。
大隈重信 「身始末は宜かった。身体は彼の通の大兵肥満で、この節散髪した西ノ海にも譲らぬ。人格は世間で大西郷と呼ぶ程な堂々たる英雄であるが、さればとて着物などには普通に小薩張したものを着、汚れたものなどは着けぬ。勿論綺麗な物を着た訳ぢゃ無いが、といって決して弊縕袍を着ては居らぬ。ただ自己の地位からみれば、御粗末な物だというだけで、おもに木綿物を用いて居った。それをダラシなく着こなして居たよ。まず相撲取りという可きだったろう」[115]
喫煙者であるが、酒は弱く下戸であったと伝わっている[要出典]。
思想[編集]
- 「敬天愛人」
- 「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」[126]
- 「児孫のために美田を買わず」[127]
- 「人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
- 「急速は事を破り、寧耐は事を成す」
- 「己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ」
- 「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」
- 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」
- 人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。
- 西郷菊次郎 「別に宗教に就いての意見という程のものは無かった。家は代々神道にて、父は事の外敬神の念が強かった。また最も祖先を尊崇し、暇さえあれば、私どもを連れて必ず墓参に出かけた。墓場にては自ら草をむしり、水と箒を取って、墓所や石碑を綺麗に掃除せらるることが常であった」
西郷南洲顕彰館 鹿児島市上竜尾町2-1
西南戦争で西郷隆盛が最後に立てこもった洞窟
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