この想いでサイトは、私たちの愛する人 川上 哲治(プロ野球、名監督)さんを記念して作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:川上 哲治(かわかみ てつはる(現役時代は「てつじ」)
戒名:大徹院赤心哲山居士
墓地:龍雲寺墓地墓地: (〒154-0003 東京都世田谷区野沢1丁目3) 日本
現役時代より、その卓越した打撃技術から「打撃の神様」の異名を取り[1]、日本プロ野球史上初の2000安打を達成した[2]。戦時中から戦後におけるプロ野球界のスターとして活躍。終戦直後は「赤バット」を使用して川上のトレードマークとなり、「青バット」を使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。また、青田昇や千葉茂と共に第一次巨人黄金時代の打の中心選手でもあり、NPB初のベストナイン(一塁手部門)を受賞している。
監督としてもアル・キャンパニスによって定型化された『ドジャースの戦法』の実践を目指し[3]、王貞治・長嶋茂雄らを率いて読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」(9年連続セ・リーグ優勝・日本一)を達成するなど多大なる功績を残し、「プロ野球界の生き神様」とまで呼ばれる伝説的な存在となった[4]。引退後は、少年野球教室を開くなど、普及に努めた。
愛称は「打撃の神様」「哲」「カワさん」「ドン川上」「赤バットの川上」、長年世田谷区野沢に居住したことから「野沢のおやじさん」とも呼ばれていた。
1939年から1シーズン制に戻り、19歳にして史上最年少での首位打者を獲得[1]。同年は116安打・169塁打で松木謙治郎の日本記録を更新(安打数は翌年に鬼頭数雄が更に更新した)、12三塁打も当時の最多記録となった(翌年に鬼頭が更新)。75打点は景浦將を抜く戦前最多(1946年に山本一人が更新)。以後1940年にシーズン41長打・190塁打の戦前最多記録を放ち(1946年に長打数を藤村富美男が、塁打数を大下弘がそれぞれ更新)、1941年にも首位打者に輝いた。「投手で四番」の先発出場を3回記録しており、4月10日の南海戦では投手として出場しながら5安打を放った。10月20日の対イーグルス戦(阪急西宮球場)では当時の日本プロ野球タイ記録となる1試合12与四死球を記録(四球11死球1、5失点で敗戦投手)[10]。
1946年8月26日の中日戦で、銀座の運動具メーカー南風運動具店からプレゼントされた赤いバットを使ってプレーした。この「赤バット」は川上のトレードマークとなり、青バットを使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。
1957年には1948年以来の打率3割未満に終わり(8年連続打率3割は王貞治と並ぶ歴代2位タイ)、翌1958年は「この年3割打てなかったら引退しよう」と決意するも、さらなる打撃不振に陥り、4番打者の座も新人の長嶋茂雄に奪われてシーズン後半から6番に下がった。日本シリーズは西鉄ライオンズに3連勝した後4連敗で敗れた(前年も西鉄に敗北し、奇しくも次シーズンも西鉄に敗北した[16])。現役最後の打席は第7戦の9回裏であり、稲尾和久と対戦して平凡なレフトフライに終わっている[注釈 6]。この試合終了後に現役引退を表明し、11月28日にヘッドコーチに就任。
監督時代
戦力が整った1965年以降、巨人は1973年まで9年連続リーグ優勝と日本一のいわゆる「V9」を達成した。この時期には管理野球は更に進化し、「人間教育」の分野にまで踏み込んでいた。この間、城之内邦雄や中村稔、宮田征典、渡辺秀武、黒江透修の台頭や、新人選手で堀内恒夫、土井正三、末次利光、高橋一三、高田繁、関本四十四、倉田誠らの若手が主力選手として支え、加えて、B級10年選手制度で金田正一を獲得したのを始めとして、トレードで関根潤三、田中久寿男、高倉照幸、森永勝也、柳田利夫、広野功、富田勝、高橋善正ら他球団の有力選手を獲得してレギュラー選手たちを刺激し続けた。特に捕手の森昌彦に対してはアマチュア球界の即戦力級の有力選手として大橋勲や槌田誠、阿野鉱二らを次々に獲得していき、安住を許さなかった。
巨人が連覇を続け、さらに王・長嶋が活躍してタイトルを独占するという状況が続くと、これに飽きてきたファンやマスコミから、巨人が勝ち続けることへの不満が高まっていった。川上はこうした批判を次第に気にし始めており、V6を達成した1970年には監督からの退任も決意している。
タイトル[編集]
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本名:川上 哲治(かわかみ てつはる(現役時代は「てつじ」)
戒名:大徹院赤心哲山居士
墓地:龍雲寺墓地墓地: (〒154-0003 東京都世田谷区野沢1丁目3) 日本
現役時代より、その卓越した打撃技術から「打撃の神様」の異名を取り[1]、日本プロ野球史上初の2000安打を達成した[2]。戦時中から戦後におけるプロ野球界のスターとして活躍。終戦直後は「赤バット」を使用して川上のトレードマークとなり、「青バット」を使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。また、青田昇や千葉茂と共に第一次巨人黄金時代の打の中心選手でもあり、NPB初のベストナイン(一塁手部門)を受賞している。
監督としてもアル・キャンパニスによって定型化された『ドジャースの戦法』の実践を目指し[3]、王貞治・長嶋茂雄らを率いて読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」(9年連続セ・リーグ優勝・日本一)を達成するなど多大なる功績を残し、「プロ野球界の生き神様」とまで呼ばれる伝説的な存在となった[4]。引退後は、少年野球教室を開くなど、普及に努めた。
愛称は「打撃の神様」「哲」「カワさん」「ドン川上」「赤バットの川上」、長年世田谷区野沢に居住したことから「野沢のおやじさん」とも呼ばれていた。
1939年から1シーズン制に戻り、19歳にして史上最年少での首位打者を獲得[1]。同年は116安打・169塁打で松木謙治郎の日本記録を更新(安打数は翌年に鬼頭数雄が更に更新した)、12三塁打も当時の最多記録となった(翌年に鬼頭が更新)。75打点は景浦將を抜く戦前最多(1946年に山本一人が更新)。以後1940年にシーズン41長打・190塁打の戦前最多記録を放ち(1946年に長打数を藤村富美男が、塁打数を大下弘がそれぞれ更新)、1941年にも首位打者に輝いた。「投手で四番」の先発出場を3回記録しており、4月10日の南海戦では投手として出場しながら5安打を放った。10月20日の対イーグルス戦(阪急西宮球場)では当時の日本プロ野球タイ記録となる1試合12与四死球を記録(四球11死球1、5失点で敗戦投手)[10]。
1946年8月26日の中日戦で、銀座の運動具メーカー南風運動具店からプレゼントされた赤いバットを使ってプレーした。この「赤バット」は川上のトレードマークとなり、青バットを使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。
1957年には1948年以来の打率3割未満に終わり(8年連続打率3割は王貞治と並ぶ歴代2位タイ)、翌1958年は「この年3割打てなかったら引退しよう」と決意するも、さらなる打撃不振に陥り、4番打者の座も新人の長嶋茂雄に奪われてシーズン後半から6番に下がった。日本シリーズは西鉄ライオンズに3連勝した後4連敗で敗れた(前年も西鉄に敗北し、奇しくも次シーズンも西鉄に敗北した[16])。現役最後の打席は第7戦の9回裏であり、稲尾和久と対戦して平凡なレフトフライに終わっている[注釈 6]。この試合終了後に現役引退を表明し、11月28日にヘッドコーチに就任。
監督時代
戦力が整った1965年以降、巨人は1973年まで9年連続リーグ優勝と日本一のいわゆる「V9」を達成した。この時期には管理野球は更に進化し、「人間教育」の分野にまで踏み込んでいた。この間、城之内邦雄や中村稔、宮田征典、渡辺秀武、黒江透修の台頭や、新人選手で堀内恒夫、土井正三、末次利光、高橋一三、高田繁、関本四十四、倉田誠らの若手が主力選手として支え、加えて、B級10年選手制度で金田正一を獲得したのを始めとして、トレードで関根潤三、田中久寿男、高倉照幸、森永勝也、柳田利夫、広野功、富田勝、高橋善正ら他球団の有力選手を獲得してレギュラー選手たちを刺激し続けた。特に捕手の森昌彦に対してはアマチュア球界の即戦力級の有力選手として大橋勲や槌田誠、阿野鉱二らを次々に獲得していき、安住を許さなかった。
巨人が連覇を続け、さらに王・長嶋が活躍してタイトルを独占するという状況が続くと、これに飽きてきたファンやマスコミから、巨人が勝ち続けることへの不満が高まっていった。川上はこうした批判を次第に気にし始めており、V6を達成した1970年には監督からの退任も決意している。
タイトル[編集]
- 首位打者:5回(1939年、1941年、1951年、1953年、1955年) ※10年のブランク受賞は同賞史上最長
- 本塁打王:2回(1940年、1948年)
- 打点王:3回(1939年、1941年、1955年)
- 最高出塁数:3回(1941年、1951年、1955年)※当時連盟表彰なし、タイトル設立は1962年。
- 最多安打:6回(1939年、1941年、1947年、1953年、1955年、1956年)※獲得回数は歴代2位、6年のブランク受賞は同賞史上最長。当時連盟表彰なし。
- 最高殊勲選手(MVP):3回(1941年、1951年、1955年) ※10年のブランク受賞は同賞史上最長
- ベストナイン:10回(一塁手部門:1940年、1947年 - 1949年、1951年、1953年、1955年 - 1958年) ※一塁手部門歴代2位
- 野球殿堂競技者表彰(1965年)
- 日本シリーズMVP:1回(1953年)
- 日本シリーズ首位打者賞:1回(1953年)
- 日本シリーズ技能賞:1回(1958年)
- 日本シリーズホームラン賞:1回(1952年)
- オールスターゲームMVP:1回(1951年 第1戦)
- 東京都文化賞(1987年)[46]
- 勲四等旭日小綬章(1992年)
- 文化功労者(1992年)
- 熊本県民栄誉賞(2013年)[47]
- 人生を味わうことと、人生を享楽することとは、似て大いに非なるものだ。 ...
- 雑念を払って、球を打つことだけに精神を集中する。 ...
- 勉学や向上の道すがらの努力や苦労には、何ひとつ無駄はない。 ...
- 人間の強い、弱いは、自分のもつ哲学からくる意思の強さ、弱さによる
- 川上哲治 記念球場
- 熊本県人吉市蟹作町1531-1
- ※注:このサイトは、川上哲治に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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