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享年78歳 、誕生日 1941年12月28日、命日 2020年8月10日
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1965年、『泣かせるぜ』で石原裕次郎と初共演[10]。続いて『赤い谷間の決斗』でも共演した[11]。裕次郎は当時の渡の中に亡くなった赤木圭一郎を見ていたという[12]

1966年には監督鈴木清順 脚本川内康範 『東京流れ者』に主演し、主題歌「東京流れ者」を歌いヒットさせた[8]

吉永小百合との初共演映画の『愛と死の記録』で第17回ブルーリボン賞新人賞を獲得。

また「裕次郎2世」と言われたことから、リバイバル版の『嵐を呼ぶ男』に主演するなど、日活は裕次郎と同様な路線での売り込みをしていた[13]

1968年(昭和43年)舛田利雄監督による『無頼より・大幹部』から始まる『無頼』シリーズ6作品は渡の日活時代の代表作となった。同年には『紅の流れ星』に出演、この作品でも新たな魅力を見せるなど[13]日活のスターとなった。しかし映画界は斜陽の時代で、日活も苦戦したが、渡は小林旭等他のスターとは異なる存在感を示し、『新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ』、『関東流れ者』など最後まで、日活ニュー・アクションと呼ばれた映画で輝きを放った[8]。1971年、日活のロマンポルノ路線への転換にともない、1971年(昭和46年)7月封切の『関東破門状』を最後に日活を退社した[14]

1971年からは『さらば掟』、『追いつめる』、『剣と花』など松竹製作映画に連続して主演した。東映など映画会社数社から渡の引き合いがあったものの、『さらば掟』の撮影時、石原プロから出向いていたスタッフの仕事ぶりに感銘を受けたことや石原への尊敬の念などから[15]、渡は1971年(昭和46年)、借金で倒産寸前の石原プロモーションへ入社[16][14][17][18]。また『ゴキブリ刑事』、『野良犬』などの東宝作品にも出演した。また連続テレビドラマにも出演する中、1972年(昭和47年)、テレビ時代劇『忍法かげろう斬り』収録中に肋膜炎を発症し入院。第20話で降板となり、第21話から最終話(第26話)まで渡瀬恒彦が代役を務めた。

1974年(昭和49年)大河ドラマ勝海舟』の主演に抜擢されるが、収録中に高熱が続き入院。第9話で途中降板となる[11]。風邪をこじらせた後、急性肝機能不全症を併発して国立熱海病院(現在の国際医療福祉大学熱海病院)に入院、入院は9か月に及んだ(その後、膠原病であったことが判明)[19][20][21]。なお代役には松方弘樹が抜擢された[11][20][22]。一方で前年1973年8月にリリースした「くちなしの花」が年明けからヒットチャートを上昇し、1974年の年間シングルチャートで7位を記録[23][19]オリコンセールス:77.4万枚[24]、累計150万枚を売り上げ[25]全日本有線放送大賞金賞も獲得し渡の代表曲となった。渡の体調も秋には回復し、年末の第25回NHK紅白歌合戦に初出場し、テレビで初めて生歌唱した[19]

(昭和51年)『やくざの墓場 くちなしの花』の主演で第19回ブルーリボン賞主演男優賞を獲得。渡はこの後、石原プロのテレビドラマに専念するため、映画出演から一時的に撤退した。しかし、岡田茂との付き合いはその後も続き[50]、1996年に岡田から「もう映画を演ってもいいんじゃないか」と促され[51]、『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』の宮沢賢治の父・政次郎役で20年ぶりに映画界に本格復帰した[51][52]。本作でこの年の各映画賞助演男優賞を独占している。

石原プロは会社再建と経営安定のため、テレビドラマへ本格進出[17][53]。渡にとって復帰第1作及び主演ドラマ『大都会 闘いの日々』は『大都会 PARTII』『大都会 PARTIII』とシリーズ化、続いて主演した『西部警察』もシリーズ化され、5年間放映された。

これら刑事ドラマでの「角刈りにサングラス」というスタイルは渡のトレードマークとなった。

同時期に放送されていたTBSクイズ100人に聞きました』では、「サングラスと言えば誰?」の問題で渡哲也が圧倒的人数で第1位を獲得した。ちなみに第2位が「ルビーの指環」でメガヒットを飛ばした寺尾聰で、第3位は藤竜也であった。

渡は石原プロ再建に貢献し、石原の下で副社長も兼務していた。1986年、病気療養のため降板を余儀なくされた石原裕次郎の代役として『太陽にほえろ!』に出演し、同番組の最終回まで出演して最終回では復帰した石原裕次郎と共演し、これが二人の最後の共演となった[54]

2020年(令和2年)8月10日午後6時30分、肺炎のため死去[2][3]。78歳没(享年80)。渡の遺志により直後の発表はされず、石原プロ関係者には8月12日に死去が知らされ、一般への公表は家族葬が終了した8月14日に行われた。お別れの会なども、渡の遺志により行われなかった[63]。最後の仕事は同年の6月下旬、同年過去に製作された宝酒造のCMに新たに声を録音する形で出演したものとなった[64][65]。映画での遺作は『男たちの大和/YAMATO』である。

戒名は「萬修院泰然自道居士」。墓所は目黒区碑文谷円融寺にある。

受賞・受章[編集]渡哲也さん
    渡哲也の出演映画・ドラマの画像は下記よりご覧ください
       石原裕次郎オンライン記念館   https://yujiro-kinen-kan.com/

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軌跡

渡哲也の歩み

(生い立ち)                                         島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ[4][5]。父親は日立に勤務[6]して広島県呉市の軍需工場などを転々とし、日立の安来工場に勤務していた時に当地出身の渡の母と結婚していた[4][5]。戦時中の1943年[6]、父親は任地の日立呉工場を退職し[6]、実家がある兵庫県津名郡淡路町(現:淡路市)に戻り洋品店を開業、小学校一年生途中から淡路島で育った

(学生時代~芸能界とのご縁)
淡路町立石屋小学校、三田学園中学校・高等学校(6年間の寮生活)[7]青山学院大学経済学部卒業。大学在学中は空手道部(流派は日本空手協会松濤館流)に在籍し、青山学院大学・空手道部OB会長・渡瀬道彦の札もかかっていた。空手弐段柔道初段

大学へ通うため上京。弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していたが、在学中に日活浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集していた[8]。弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募した[8]

(日活へ入社)
既に斜陽期に差し掛かってた日活では高橋英樹に続くスター候補として、デビュー前の記者会見では破格の扱いを受け “映画界待望久し!日活に驚異の新星!渡哲也!!” の横断幕(実は模造紙)で大々的に売り出された。記者会見の場で瓦割りを披露し、翌日のスポーツ紙やニュース映像でも大きく取り上げられた。