(オルガン製造)
浜松尋常小学校のオルガンは1887年にアメリカから輸入され寄付されたリードオルガンで45円であったという。山葉は修理の際にこの構造を模写し「自分は3円で造る自信がある」と言ったという。
当時浜松で飾り職人をしていた河合喜三郎と協力し2ヶ月後にオルガンを完成させたが、浜松の小学校や静岡の師範学校での評価は低かった。そこで東京の音楽取調所(現東京藝術大学)までオルガンを運んだ。東海道線が全通していなかった当時、オルガンを担いで徒歩で箱根峠を越えての上京だったという。音楽取調所御用掛・伊澤修二の評価は、「調律が不正確」というものだった。音階や調律の知識のなかった山葉は1ヶ月かけて音楽取調所で音楽理論を学び、河合喜三郎の私財をもってオルガン第2号を製作した[4]。
当時浜松で飾り職人をしていた河合喜三郎と協力し2ヶ月後にオルガンを完成させたが、浜松の小学校や静岡の師範学校での評価は低かった。そこで東京の音楽取調所(現東京藝術大学)までオルガンを運んだ。東海道線が全通していなかった当時、オルガンを担いで徒歩で箱根峠を越えての上京だったという。音楽取調所御用掛・伊澤修二の評価は、「調律が不正確」というものだった。音階や調律の知識のなかった山葉は1ヶ月かけて音楽取調所で音楽理論を学び、河合喜三郎の私財をもってオルガン第2号を製作した[4]。
(エピソード)
- 事業に対する姿勢として「自分は品物を販売するに掛引をせぬ。生産費を控除して代価を定め決して暴利を貪らぬ、而して品質に対しては絶対的責任を負ぶるを信条として、社会の信用を博する覚悟である」と語っていた[5]。