この想いでサイトは、私たちの愛する人 三船 敏郎(世界に認められた映画俳優)さんを記念して作成されました。
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本名:三船 敏郎(みふね としろう)
墓地:春秋苑春秋苑(神奈川県 川崎市)(神奈川県 川崎市春秋苑(神奈川県 川崎市))、日本
日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は同じ[注釈 1]。第二次世界大戦後の日本映画を代表する俳優のひとりで、黒澤明監督作品への出演で知られる[3]。国際的にも知名度が高く、1960年代以降は日本国外の映画にも出演した。1961年と1965年にはヴェネツィア国際映画祭で男優賞を受賞した。
1946年6月、三船はニューフェイスの面接試験を受けたが、審査員に「泣いてみろ」と言われても「悲しくないのに泣けません」と言い返したりするなど、不機嫌な態度を取ったため顰蹙を買った[22][23]。試験会場に居合わせた高峰秀子によると、三船の振る舞いはほとんど無礼に近く、審査員の質問にはロクに返事もしなかったというが、そんな三船のふてくされた態度は「照れ隠しだった」としている[24]。最終的に三船は補欠で採用されることになり、応募者4000人の中から選ばれた、男性16人、女性32人の合格者の一人となった[25][26]。同期には堀雄二、伊豆肇、堺左千夫、久我美子、若山セツ子、岸旗江、のちに三船の妻となる吉峰幸子などがいた[27]。しかし、三船のニューフェイス採用の経緯については諸説ある。
黒澤明によると、審査委員長の山本嘉次郎は三船を推していたが、当時の東宝は労働組合の発言力が強く、審査委員も映画製作者側と組合側の半数ずつで構成されており、その投票による決議で不合格となったため、黒澤たちが「俳優の資質を見極めるのに専門家と門外漢(組合側)が同じ一票ではおかしい」と抗議し、結局山本が「監督として責任を持つ」と発言したことで合格になったという
1948年、デビュー3作目・黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場した。この作品により三船はスターとなる。この映画で三船敏郎を初めて起用した黒澤明は「彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は[要出典]」と当時を振り返り語っている。
海外からのオファー[編集]『羅生門』『七人の侍』『用心棒』『赤ひげ』などで黒澤明とともにその名が世界中に知れ渡った三船敏郎は世界中からオファーが舞い込むようになる。海外からの出演依頼はものすごい数になったと言われており、共演を熱望するスターも多かったが、三船は日本映画の出演を優先し、ほとんどの依頼を断っている[39]。
1961年、初の海外主演作品となるメキシコ人監督イスマエル・ロドリゲスによる『価値ある男』にメキシコ人役で主演。この映画は主人公のメキシコ人を日本人が演じるという奇抜なアイデアであるにもかかわらず、1962年のアカデミー賞に外国語映画部門でノミネート、1961年に『用心棒』と併せてブルーリボン賞で主演男優賞を受賞、日本映画記者会賞最優秀男優賞受賞、1962年のゴールデングローブ賞に外国語映画部門でシルバーグローブを受賞、同じく1962年のサンフランシスコ国際映画祭でベスト・フィルム部門でゴールデン・ゲート・アワードを受賞するなどの結果を出す。また、この時の国際的活躍により1961年ブルーリボン賞特別賞を受賞した。
1966年、3部門でアカデミー賞を受賞したカーレース映画『グラン・プリ』で初めてハリウッド映画に出演し、この際のステージ建設で示した日本映画人としての情熱を評価されてブルーリボン賞特別賞を受賞した。その後も、『太平洋の地獄』や『レッド・サン』、『太陽にかける橋/ペーパー・タイガー』などで海外のスターと共演する。
アクション俳優としての一面もあり、その軽快な体さばきや体格の良さで迫力のあるアクションをすることも多い。特に、殺陣の腕前に関しては、黒澤をして「殺陣のオリンピックがあれば金メダルがある」と言わしめるほどである[52]。殺陣師の宇仁貫三は、三船の殺陣の特徴として、迫力と眼光の鋭さをあげる。撮影で切りに行こうとしても、なかなか行けなかったという。さらに立ち回りでは、生身に当てて、その反動で次の相手を切っていたという。終わった後、ミミズ腫れが今日は何本入ってるか、数えていたと語っている[53]。
また、『用心棒』における三船の殺陣は凄まじく早かったことを黒澤明は後に述べている。撮影時に三船が本気で刀を振ったら速すぎて太刀筋がカメラに映らなかった。フィルムのコマひとつひとつには光が流れているだけのように見え、映してみてはじめて刀の動きがわかる程度だった。『価値ある男』ではメキシコの軽快なダンスをそつなくこなしている。
受賞[編集]三船は生涯に国内外で多くの栄誉を受けた。1986年には紫綬褒章、1993年には勲三等瑞宝章を受章し、1989年にはフランス政府から芸術文化勲章を与えられた[7]。また、1986年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校から「国際的映画俳優として社会に貢献した」ことを称えられ、名誉学位にあたるUCLAメダルを与えられた(俳優ではローレンス・オリヴィエに次いで二人目の授与となる)[116][117]。2016年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームで星を獲得し、日本関係で4番目となるハリウッドの殿堂入りを果たした
三船敏郎の出演作品
〇 七人の侍 〇 酔いどれ天使
〇 用心棒 〇 無法松の一生
〇 上意討ち 〇 黒部の太陽
〇 風林火山 〇 愛と憎しみの彼方へ
〇 椿三十郎 〇 西鶴一代女
〇 戦国無頼 〇 赤毛
〇 乱 〇 レッド・サン
〇 宮本武蔵 〇 暗黒街の対決
〇 赤ひげ 〇 隠し砦の三悪人
〇 羅生門 〇 深い河 etc.
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本名:三船 敏郎(みふね としろう)
墓地:春秋苑春秋苑(神奈川県 川崎市)(神奈川県 川崎市春秋苑(神奈川県 川崎市))、日本
日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は同じ[注釈 1]。第二次世界大戦後の日本映画を代表する俳優のひとりで、黒澤明監督作品への出演で知られる[3]。国際的にも知名度が高く、1960年代以降は日本国外の映画にも出演した。1961年と1965年にはヴェネツィア国際映画祭で男優賞を受賞した。
1946年6月、三船はニューフェイスの面接試験を受けたが、審査員に「泣いてみろ」と言われても「悲しくないのに泣けません」と言い返したりするなど、不機嫌な態度を取ったため顰蹙を買った[22][23]。試験会場に居合わせた高峰秀子によると、三船の振る舞いはほとんど無礼に近く、審査員の質問にはロクに返事もしなかったというが、そんな三船のふてくされた態度は「照れ隠しだった」としている[24]。最終的に三船は補欠で採用されることになり、応募者4000人の中から選ばれた、男性16人、女性32人の合格者の一人となった[25][26]。同期には堀雄二、伊豆肇、堺左千夫、久我美子、若山セツ子、岸旗江、のちに三船の妻となる吉峰幸子などがいた[27]。しかし、三船のニューフェイス採用の経緯については諸説ある。
黒澤明によると、審査委員長の山本嘉次郎は三船を推していたが、当時の東宝は労働組合の発言力が強く、審査委員も映画製作者側と組合側の半数ずつで構成されており、その投票による決議で不合格となったため、黒澤たちが「俳優の資質を見極めるのに専門家と門外漢(組合側)が同じ一票ではおかしい」と抗議し、結局山本が「監督として責任を持つ」と発言したことで合格になったという
1948年、デビュー3作目・黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場した。この作品により三船はスターとなる。この映画で三船敏郎を初めて起用した黒澤明は「彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は[要出典]」と当時を振り返り語っている。
海外からのオファー[編集]
『価値ある男』(1961年)の三船(中央)。
1961年、初の海外主演作品となるメキシコ人監督イスマエル・ロドリゲスによる『価値ある男』にメキシコ人役で主演。この映画は主人公のメキシコ人を日本人が演じるという奇抜なアイデアであるにもかかわらず、1962年のアカデミー賞に外国語映画部門でノミネート、1961年に『用心棒』と併せてブルーリボン賞で主演男優賞を受賞、日本映画記者会賞最優秀男優賞受賞、1962年のゴールデングローブ賞に外国語映画部門でシルバーグローブを受賞、同じく1962年のサンフランシスコ国際映画祭でベスト・フィルム部門でゴールデン・ゲート・アワードを受賞するなどの結果を出す。また、この時の国際的活躍により1961年ブルーリボン賞特別賞を受賞した。
1966年、3部門でアカデミー賞を受賞したカーレース映画『グラン・プリ』で初めてハリウッド映画に出演し、この際のステージ建設で示した日本映画人としての情熱を評価されてブルーリボン賞特別賞を受賞した。その後も、『太平洋の地獄』や『レッド・サン』、『太陽にかける橋/ペーパー・タイガー』などで海外のスターと共演する。
アクション俳優としての一面もあり、その軽快な体さばきや体格の良さで迫力のあるアクションをすることも多い。特に、殺陣の腕前に関しては、黒澤をして「殺陣のオリンピックがあれば金メダルがある」と言わしめるほどである[52]。殺陣師の宇仁貫三は、三船の殺陣の特徴として、迫力と眼光の鋭さをあげる。撮影で切りに行こうとしても、なかなか行けなかったという。さらに立ち回りでは、生身に当てて、その反動で次の相手を切っていたという。終わった後、ミミズ腫れが今日は何本入ってるか、数えていたと語っている[53]。
また、『用心棒』における三船の殺陣は凄まじく早かったことを黒澤明は後に述べている。撮影時に三船が本気で刀を振ったら速すぎて太刀筋がカメラに映らなかった。フィルムのコマひとつひとつには光が流れているだけのように見え、映してみてはじめて刀の動きがわかる程度だった。『価値ある男』ではメキシコの軽快なダンスをそつなくこなしている。
受賞[編集]三船は生涯に国内外で多くの栄誉を受けた。1986年には紫綬褒章、1993年には勲三等瑞宝章を受章し、1989年にはフランス政府から芸術文化勲章を与えられた[7]。また、1986年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校から「国際的映画俳優として社会に貢献した」ことを称えられ、名誉学位にあたるUCLAメダルを与えられた(俳優ではローレンス・オリヴィエに次いで二人目の授与となる)[116][117]。2016年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームで星を獲得し、日本関係で4番目となるハリウッドの殿堂入りを果たした
三船敏郎の出演作品
〇 七人の侍 〇 酔いどれ天使
〇 用心棒 〇 無法松の一生
〇 上意討ち 〇 黒部の太陽
〇 風林火山 〇 愛と憎しみの彼方へ
〇 椿三十郎 〇 西鶴一代女
〇 戦国無頼 〇 赤毛
〇 乱 〇 レッド・サン
〇 宮本武蔵 〇 暗黒街の対決
〇 赤ひげ 〇 隠し砦の三悪人
〇 羅生門 〇 深い河 etc.
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