この追悼サイトは、 藤堂 高虎(築城三名人の一人)さまのために作成されました。
享年74歳 、誕生日 1556年2月16日、命日 1630年11月9日
※ 藤堂さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。津藩藤堂家(藤堂家宗家)初代。
藤堂高虎は、黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人[4]」の一人と称される。数多くの築城の縄張りを担当し、層塔式天守を考案。高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、その第一人者といっても過言ではない[4]。また外様大名でありながら徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する実力を持つ、異能の武将であったといえる[5]。
主家転々の時代[編集]弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる[1][8][7]。母「とら」は多賀良氏の娘であったが、その後、藤堂忠高の養女となっている[1]。
幼名を与吉と名乗った。幼少の頃より人並み外れた体格で、壮年の乳母の乳では足らず、数人の女性の乳を貰ったとされる。性格も荒く、3歳の頃には餅を5つ、6つ食べることもざらで、ケガをしても痛いと言ったことがないと伝わる。13歳の時には、兄の高則よりも背が高く、筋骨逞しい身体であった[9]。兄の戦死後、若くして家督を継いだ[9]。
天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった山本山城主阿閉貞征に厚遇されて仕えるが、同僚の阿閉那多助・広部文平が自分の指示に従わなかったため殺害し浪人となる。なお、この時に渡辺了と交流している。
恩人・秀長との出会い[編集]天正4年(1576年)に、信長の重臣・羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(豊臣秀長)に300石で仕える。この時に冠名を与右衛門に改めている(『公室年譜略』)[10][14][11]。
天正5年(1577年)10月[15]、羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍し岩洲城・竹田城を攻め落とす。高虎は居相政貞[16]の案内で竹田城へ奇襲に成功し、1,000石加増され足軽大将となる。ただし、高虎が120騎を率いて行った尾代谷・古城山一揆衆攻めでは激しい抵抗や栃谷城の塩冶左衛門尉[17]の攻撃に苦戦し、多くの犠牲を出しながら高虎が一騎で一揆衆と栃谷の者を打ち破る苦戦の様子が伝えられている[18][15]。
翌年三木合戦に従軍する[15][19]。天正8年(1580年)正月鷹の尾城攻めの最中、別所友之の家老・加古六郎右衛門と戦い、半刻(一時間)の戦闘の末これを討ち取り、六郎右衛門の愛馬「加古黒」を所持した[20][21]。同月17日に三木城は落城し、戦功により2,000石の加増を受ける。
天正9年(1581年)、主君羽柴秀長の領国で起きた但馬小代一揆平定に取り掛かる。高虎は七美郡小路比村の小代大膳ら92名を討つために大屋村の栃尾加賀祐善・居合肥前真守政熙と謀り合い攻撃するが、瓜原某が加勢した敵方の攻撃に押され高虎は股を負傷して退却する。また蔵垣村の戦いでは落馬の危機に逢うも祐善の子・栃尾源左衛門善次の助けで帰営するなど苦戦が見られた[22]。同年、 一色修理太夫義直の娘を妻に迎える[23]。
但馬国の土豪を討った功績により羽柴秀長から3,000石の所領を加増され、鉄砲大将となった[24]。秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く抜群の戦功を挙げたため、1,300石を加増された[24]。小牧・長久手の戦いでは峯城・松ヶ島城攻めで武功あり。
天正19年(1591年)に秀長が死去すると、甥で養子の羽柴秀保(豊臣秀保)に仕え[31]、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。文禄4年(1595年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ秀吉が生駒親正に説得させて召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となる[32][33]。
慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城の戦いと鳴梁海戦にも参加し、帰国後に大洲城1万石を加増されて8万石となる[34]。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚・姜沆を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。
慶長5年(1600年)、家康による会津征伐に従軍し、その後の河渡川の戦いに参戦する。9月15日の関ヶ原本戦では早朝、大谷吉継を相手に戦闘を行った。その後、山中へ転戦して石田三成と戦ったとされる[36][37]。また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)。更に近江時代の人脈を大切にし脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への内応工作を行っている[38]。戦の終結後、脇坂安治は東軍との仲介に感謝して高虎へ貞秀の太刀を送っている[39]。
戦後、これらの軍功により家康からはそれまでの宇和島城8万石の安堵の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となった。これにより、高虎は新たな居城を今治城に定めて改築を行い、宇和島城には高虎の従弟藤堂良勝が城代として置かれた[36]。
天正年間の天守は望楼型天守が主流であったが、構造上無理があることから、不安定で風や地震に弱く、必ず屋根裏の階ができるため使い勝手が悪かった[39]。 今治城では新たに層塔型天守を創建した。これは矩形の天守台を造成し、その上に規格化された部材を用いて全体を組み上げたもので、構造的な欠陥が解消されるばかりか、各階別に作事が可能なことから工期も短縮できた。以後、高虎がこの様式を江戸城をはじめとする城郭普請に採用したことで、高虎の新型天守は近世における天守建築の主流となった[39]。
津発展の礎を築いた藤堂高虎たちのお墓がある
※注:このサイトは、藤堂高虎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年74歳 、誕生日 1556年2月16日、命日 1630年11月9日
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藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。津藩藤堂家(藤堂家宗家)初代。
藤堂高虎は、黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人[4]」の一人と称される。数多くの築城の縄張りを担当し、層塔式天守を考案。高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、その第一人者といっても過言ではない[4]。また外様大名でありながら徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する実力を持つ、異能の武将であったといえる[5]。
主家転々の時代[編集]弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる[1][8][7]。母「とら」は多賀良氏の娘であったが、その後、藤堂忠高の養女となっている[1]。
幼名を与吉と名乗った。幼少の頃より人並み外れた体格で、壮年の乳母の乳では足らず、数人の女性の乳を貰ったとされる。性格も荒く、3歳の頃には餅を5つ、6つ食べることもざらで、ケガをしても痛いと言ったことがないと伝わる。13歳の時には、兄の高則よりも背が高く、筋骨逞しい身体であった[9]。兄の戦死後、若くして家督を継いだ[9]。
天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった山本山城主阿閉貞征に厚遇されて仕えるが、同僚の阿閉那多助・広部文平が自分の指示に従わなかったため殺害し浪人となる。なお、この時に渡辺了と交流している。
恩人・秀長との出会い[編集]天正4年(1576年)に、信長の重臣・羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(豊臣秀長)に300石で仕える。この時に冠名を与右衛門に改めている(『公室年譜略』)[10][14][11]。
天正5年(1577年)10月[15]、羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍し岩洲城・竹田城を攻め落とす。高虎は居相政貞[16]の案内で竹田城へ奇襲に成功し、1,000石加増され足軽大将となる。ただし、高虎が120騎を率いて行った尾代谷・古城山一揆衆攻めでは激しい抵抗や栃谷城の塩冶左衛門尉[17]の攻撃に苦戦し、多くの犠牲を出しながら高虎が一騎で一揆衆と栃谷の者を打ち破る苦戦の様子が伝えられている[18][15]。
翌年三木合戦に従軍する[15][19]。天正8年(1580年)正月鷹の尾城攻めの最中、別所友之の家老・加古六郎右衛門と戦い、半刻(一時間)の戦闘の末これを討ち取り、六郎右衛門の愛馬「加古黒」を所持した[20][21]。同月17日に三木城は落城し、戦功により2,000石の加増を受ける。
天正9年(1581年)、主君羽柴秀長の領国で起きた但馬小代一揆平定に取り掛かる。高虎は七美郡小路比村の小代大膳ら92名を討つために大屋村の栃尾加賀祐善・居合肥前真守政熙と謀り合い攻撃するが、瓜原某が加勢した敵方の攻撃に押され高虎は股を負傷して退却する。また蔵垣村の戦いでは落馬の危機に逢うも祐善の子・栃尾源左衛門善次の助けで帰営するなど苦戦が見られた[22]。同年、 一色修理太夫義直の娘を妻に迎える[23]。
但馬国の土豪を討った功績により羽柴秀長から3,000石の所領を加増され、鉄砲大将となった[24]。秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く抜群の戦功を挙げたため、1,300石を加増された[24]。小牧・長久手の戦いでは峯城・松ヶ島城攻めで武功あり。
天正19年(1591年)に秀長が死去すると、甥で養子の羽柴秀保(豊臣秀保)に仕え[31]、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。文禄4年(1595年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ秀吉が生駒親正に説得させて召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となる[32][33]。
慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城の戦いと鳴梁海戦にも参加し、帰国後に大洲城1万石を加増されて8万石となる[34]。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚・姜沆を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。
慶長5年(1600年)、家康による会津征伐に従軍し、その後の河渡川の戦いに参戦する。9月15日の関ヶ原本戦では早朝、大谷吉継を相手に戦闘を行った。その後、山中へ転戦して石田三成と戦ったとされる[36][37]。また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)。更に近江時代の人脈を大切にし脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への内応工作を行っている[38]。戦の終結後、脇坂安治は東軍との仲介に感謝して高虎へ貞秀の太刀を送っている[39]。
戦後、これらの軍功により家康からはそれまでの宇和島城8万石の安堵の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となった。これにより、高虎は新たな居城を今治城に定めて改築を行い、宇和島城には高虎の従弟藤堂良勝が城代として置かれた[36]。
天正年間の天守は望楼型天守が主流であったが、構造上無理があることから、不安定で風や地震に弱く、必ず屋根裏の階ができるため使い勝手が悪かった[39]。 今治城では新たに層塔型天守を創建した。これは矩形の天守台を造成し、その上に規格化された部材を用いて全体を組み上げたもので、構造的な欠陥が解消されるばかりか、各階別に作事が可能なことから工期も短縮できた。以後、高虎がこの様式を江戸城をはじめとする城郭普請に採用したことで、高虎の新型天守は近世における天守建築の主流となった[39]。
宇和島城 別名 鶴島城、板島城、丸串城[愛媛県][伊予] 愛媛県宇和島市丸之内1
寒松院 三重県津市寿町5-24 平均評価:★★★★☆ 3.96(12位) 見学時間:1時間12分(42位) 攻城人数:2259人(50位) 行きたい:1247人(22位)
二条城 別名 二条御所、二条亭、一条新屋敷、二条御殿[京都府][山城] 京都府京都市中京区二条城町541 平均評価:★★★★☆ 3.93(15位) 見学時間:1時間22分(25位) 攻城人数:4654人(7位) 行きたい:1406人(13位)
大阪城 別名 大坂城、徳川大坂城、錦城、金城[大阪府][摂津] 大阪府大阪市中央区大阪城1-1 平均評価:★★★★☆ 3.91(17位) 見学時間:1時間47分(5位) 攻城人数:5061人(6位) 行きたい:1350人(16位)
江戸城 別名 千代田城、江城[東京都][武蔵] 東京都千代田区千代田 平均評価:★★★★☆ 3.72(35位) 見学時間:1時間39分(12位) 攻城人数:3744人(10位) 行きたい:153人(52位)
大洲城 別名 比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城、亀城[愛媛県][伊予] 愛媛県大洲市大洲903 平均評価:★★★★☆ 3.67(38位) 見学時間:1時間1分(66位) 攻城人数:1874人(71位) 行きたい:123人(95位)
和歌山城 別名 虎伏城、竹垣城[和歌山県][紀伊] 和歌山県和歌山市一番丁3 平均評価:★★★★☆ 3.74(33位) 見学時間:1時間33分(14位) 攻城人数:2796人(28位) 行きたい:167人(40位)
伊賀上野城 別名 白鳳城[三重県][伊賀] 三重県伊賀市上野丸之内106 平均評価:★★★★☆ 3.65(40位) 見学時間:1時間15分(37位) 攻城人数:2774人(29位) 行きたい:131人(79位)
今治城 別名 吹上城、吹揚城[愛媛県][伊予] 愛媛県今治市通町3-1-3 平均評価:★★★★☆ 3.67(38位) 見学時間:1時間11分(45位) 攻城人数:2294人(48位) 行きたい:156人(47位)
津城 別名 安濃津城[三重県][伊勢] 三重県津市丸之内本丸 平均評価:★★★☆☆ 3.21(81位) 見学時間:44分(85位) 攻城人数:1691人(88位) 行きたい:100人(151位)
郡山城 別名 大和郡山城、雁陣之城[奈良県][大和] 奈良県大和郡山市 平均評価:★★★☆☆ 3.40(68位) 見学時間:1時間4分(59位) 攻城人数:1790人(82位) 行きたい:119人(102位)
出石城 別名 高城[兵庫県][但馬] 兵庫県豊岡市出石町内町 平均評価:★★★☆☆ 3.12(--位) 見学時間:43分(--位) 攻城人数:1337人(116位) 行きたい:136人(74位)
赤木城[三重県][紀伊] 三重県熊野市紀和町赤木 平均評価:★★★☆☆ 3.49(--位) 見学時間:43分(--位) 攻城人数:815人(175位) 行きたい:168人(38位)
聚楽第 別名 聚楽亭、聚楽城[京都府][山城] 京都府京都市上京区 平均評価:★★★☆☆ 2.74(--位) 見学時間:25分(--位) 攻城人数:786人(184位) 行きたい:90人(182位)
伏見城 別名 木幡山伏見城、伏見桃山城、桃山城、木幡山城[京都府][山城] 京都府京都市伏見区桃山町古城山 平均評価:★★★☆☆ 2.93(--位) 見学時間:38分(--位) 攻城人数:1377人(112位) 行きたい:137人(73位)
津発展の礎を築いた藤堂高虎たちのお墓がある
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