承継
この追悼サイトは、 船村 徹(作曲家・歌手)さまのために作成されました。

享年84歳 、誕生日 1932年6月12日、命日 2017年2月16日
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船村徹は、日本作曲家歌手日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。横綱審議委員会委員。本名は福田 博郎(ふくだ ひろお)。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。歌謡曲の作曲家として初めて文化勲章を受章した。位階従三位

作曲家としての本格的な作品は1955年の「別れの一本杉」。その後も、「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」などが連続ヒットした。

1956年キングレコードからコロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰って」(歌・青木光一)が大ヒット。「王将」は戦後初のミリオンセラーを記録した。

1993年日本作曲家協会理事長に就任し、1997年吉田正の後を受けて第4代会長に就任、2005年遠藤実へバトンタッチするまで務めた。

1995年紫綬褒章受章、2002年、栃木県県民栄誉賞受賞、2003年、旭日中綬章受章[3]、2008年、文化功労者、2014年、栃木県名誉県民[4]、2016年、歌謡曲作曲家として初めて文化勲章[5]受章(作曲家としては山田耕筰に次ぎ2人目)。

妻は元歌手の能沢佳子、長男は作曲家編曲家蔦将包(つた まさかね)、長女は作詞家真名杏樹、次女は元女優の福田渚子

愛弟子には、北島三郎鳥羽一郎島津伸男三木たかし大下八郎・ムーディー松島・香田晋静太郎天草二郎走裕介村木弾森サカエ森若里子がいる(松島・鳥羽・香田・静・天草・走・村木は、船村宅に住み込み、師匠と寝食を共にした内弟子である)。

作曲家として知られているが、「演歌巡礼」の活動の際、自ら歌唱することもあった。船村が自ら歌った作品を収めた「愛惜の譜」と言う通信販売限定のボックスCDも出ている。過去に数枚シングルも出している。船村徹とおるけすた・てぃぴか・日本のようにバンドリーダーとしての側面も持っていた。

船村の代表曲のひとつ『矢切の渡し』は元々ちあきなおみに提供した楽曲だったが、細川たかしが歌唱したものがヒットし、第25回日本レコード大賞を受賞した。これについて船村は「美声ではあるが細川君の歌い方は一本調子な感じで、ちあき君は観賞用‥細部まできっちりと聴かせる歌だから。正直に言うと細川盤は、楽曲の難しい部分を省略しているので『何だ、これならオレにも歌える』と世間に思わせる歌い方でしたね。‥」と分析・評価している
人気曲 一部
  1. 心/五木ひろし
  2. 02. 新宿挽歌/藤 圭子
  3. 03. 兄弟船/鳥羽一郎
  4. 04. 女の川/森若里子
  5. 05. 女の港/大月みやこ
  6. 06. 別れの一本杉/五木ひろし(春日八郎)
  7. 07. 女の涙/野中彩央里(大月みやこ)
  8. 08. 雨の夜あなたは帰る/吉 幾三(島 和彦)
  9. 09. みだれ髪/木村友衛(美空ひばり)
  10. 10. おんなの出船/松原のぶえ
  11. 11. 矢切の渡し/千 昌夫(ちあきなおみ、細川たかし)
  12. 12. 思い川/森若里子
  13. 13. なみだ船/水田かおり(北島三郎)
  14. 14. 波止場/野中彩央里
  15. 15. いっぽんの松/千 昌夫
  16. 16. 風雪ながれ旅/松前ひろ子(北島三郎)
  17. 17. 鳩のいる港町/森若里子
  18. 18. 紅とんぼ/五木ひろし(ちあきなおみ)
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     日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館
          栃木県日光市今市719-1 0288-25-7771  道の駅日光内

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軌跡

(作曲家デビューまで)

獣医だった父親がクラシックレコードの収集家であったことや、小学校時代にブラスバンド部でトランペットを吹いていたこと[2]などもあり音楽の道を志す。

東洋音楽学校在学時はまだ駐留米軍が数多くいた時代であり、船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーを務めたこともあったという。音楽学校在学時に、作詞家高野公男と組み作曲活動を開始した。ただ、高野とともに、生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。

1953年、雑誌「平凡」コンクール曲第一席「たそがれとあの人」がレコード化され、作曲家としてデビュー。

(エピソード)

船村は故郷栃木・塩谷町への思いが終生強く、故郷に指定廃棄物最終処分場の建設話が持ち上がった際には「故郷の山や川を汚してはいかん」として住民等による産廃施設反対運動を支持した[13]

船村は日本山岳会会員であったほど山を愛し、「国民の祝日『山の日』を作ろう」と呼びかけた人物でもある[14][13]

船村の12歳年長で大日本帝国陸軍士官だった兄がよくハーモニカで『ドリゴのセレナーデ』を船村の前で演奏して聴かせてくれた。その兄からは「お前は軍人になってはいかん」と諭されたことを語っていた[15]。そのこともあり、兄や多くの英霊が眠る靖国神社で奉納チャリティ公演を幾度となく開催した[16]。奇しくも船村が死去した2月16日は第二次世界大戦で陸軍士官として戦地へ赴こうとしたその兄がミンダナオ島沖で戦死[15]した日でもあった[17]