承継
この想いでサイトは、 渡瀬 恒彦(俳優・歌手)さまを承継するために作成されました。

享年72歳 、誕生日 1944年7月28日、命日 2017年3月14日
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1944年7月28日[1] - 2017年3月14日)は、日本俳優歌手タレント。本名同じ。

島根県能義郡安来町(当時)生まれ、兵庫県淡路島育ち[1]東映マネージメント所属[2]。兄は俳優の渡哲也、長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。身長174cm[1]血液型AB型[1]

  • 2015年まで計54作放映された『十津川警部』シリーズについて、当時のプロデューサー森下和清が渡瀬を「役者でありながらスタッフでもあった」と話す。現場では演出を仕切ることもあり、台本にもどんどん口を出した。スタッフをかわいがる一方、手を抜く人に対しては監督であっても言うことを聞かなかった。森下は「十津川を『自分の根幹』と言って大切にしていた。役というより、恒さんそのものだった」とコメントしている[36]
2002年からは渡瀬がデビューした東映京都撮影所で制作された「おみやさん」がスタート。

  • 同作品スタート10年目でインタビューに応えている。その際、長く渡瀬の持ち役のひとつになった「十津川警部」と比較して『十津川は相手の反応は関係なく、直球を投げる。おみやさんは相手とのやりとりの中でカーブを投げられるんですね、優しいんだと思います』と人気の秘密を語った[37]
  • スタート当初から撮影場所も舞台も京都だったが、2011年の第8シリーズからはゲストの職業も和傘職人や桜守などより京都にこだわるようになり、京都をよく知る渡瀬が脚本中にあった「ベージュ色」という台詞を「亜麻色」という言い回しに変えるということもあった[37]
2006年からは「警視庁捜査一課9係」シリーズがスタート。松本基弘プロデューサーによれば「『ER緊急救命室』みたいな群像劇をやってみたかった。『土曜ワイド劇場』の枠で『警視庁捜査一課強行七係』(2005年)を作ったが2時間ドラマでは群像劇にはならないことがわかった。その時上層部から『相棒』をやらない時期にやる新たな刑事ドラマを考えろと言われたので、七係の反省から『警視庁捜査一課9係』の企画を出しました。事件を解決するだけではなく、レギュラー刑事たちのプライベートも描く群像劇で、主人公が必ず中心になるわけではない、ある意味チャレンジの企画なんですがいいですか?と尋ねたら、「おもしろそうだからいいよ」と。昼行灯みたいな係長・加納倫太郎の立ち位置をよく理解して、企画に乗ってくださいました[40]

  • 9係まではリーダーシップあふれる刑事役が多かったが、「部下と距離を置き自分から捜査しないと思われ、人を使う」役柄は9係が初。2006年スタート当初は「実はこんなに出番の少ないドラマは、今までないんですよ。戦場に出ないでもいい勝ち方ってないのかな(笑)。やる限りは勝たないとね。どうやってみんなに働いてもらうかな[41]」と語っていたが、最終的に晩年では「代表作にしたい[31]」と公言するほど、愛着の深い作品になった。2009年当時のインタビューでは「スタート当初からこれは映画にできる」と思うほど刑事たちのキャラクターが生き生きと描かれ、刑事たちの個性だけでドラマができると9係を絶賛。その中で主演である自分は、「思い切ってキャラクターをぶつけあっている刑事たちを見守る」役割といい、「自分が演技しないで人がやるのを見ているのは、俳優としてはエネルギーがいる」というやりがいを明かした[42]
晩年・闘病・死去(2015年〜2017年)[編集]2015年8月末、体調不良を訴え、受けた検査で胆嚢に癌が見つかった(当時も調子が良くなかったと思われるが、8月2日に大原麗子の七回忌法要に参列[47] していたことが確認されている)。余命1年の告知を受け、都内の大学病院で5ヶ月間、手術ではなく抗癌剤の投与と放射線治療を受けた。その後も入退院を繰り返しながら、少しずつ仕事をこなしてきた。その間も高額な抗癌剤を試そうとしたり、がん専門病院で特別な放射線治療を受けようとしたが、転移のため叶わなかった[48]。自身が癌に侵されていることは、「あえて自分から話すことではないと思った」という理由[49] で、2016年5月26日発売の「女性セブン」が報じるまでは公にされなかった。

「9係」プロデューサーの松本基弘には2016年の11シーズン終了後に渡瀬自身から癌であることを伝えられた。しかし松本は治療すれば必ず良くなると信じていた[50] という。どんな体調が優れない時でも「俺はやる、とにかく現場に戻るんだ」という意欲を燃やし[51]、2016年に入ってからは血流を良くする気功術を導入した[48]

病魔が渡瀬の体を蝕み、2016年6月から8月に撮影された「おみやさんスペシャル2」では、親友の成瀬正孝が陣中見舞いに訪れた6月の時点では、調子が悪いながら一緒に食事へ行くなどの気遣いを見せる余裕があったが[52]、7月には隠し切れないほどの体調悪化で撮影が続行できるか一時検討された。しかし、撮影途中から妻が京都に駆けつけ、献身的に支えたことで撮影を乗り切った[53]。松本基弘によれば「おみやさんスペシャル」の後に「タクシードライバーの推理日誌」新作撮影予定だったが、体調を崩したことを考慮し延期して静養に努めた[50]

遺作となったテレビ朝日系列のスペシャルドラマ「そして誰もいなくなった」(2017年3月25日・26日放送)への出演を藤本一彦プロデューサーが渡瀬にオファーしたのは11月。藤本によれば、最初は別の役を依頼するつもりだったが、準備稿を読んだ渡瀬が犯人の磐村兵庫役をやりたいと話した[50] という

人柄[編集]
  • 遠縁にプロテニスプレイヤーの錦織圭がおり、渡・渡瀬兄弟の祖母と錦織の曽祖父が兄弟だった[79]
    • 2008年、錦織の親戚筋から「石原プロモーション」渡宛てに簡単な家系図を添えて手紙が届いた。当時全く知らず驚いた渡は渡瀬にも連絡を取ったが、渡瀬も全く知らなかった[79] という
  • 渡瀬の人物像を語る上でしばしば登場するのが「芸能界一喧嘩が強い」という逸話である。渡瀬本人が腕っ節の強さを吹聴するようなことは無かったものの、彼を古くから知る芸能関係者らは「渡瀬さんが一番」と口を揃え、その強さを“伝説”として語り継いでいる[80]
  • 早稲田大学はドイツ語文法の1単位が取れず抹籍扱いになった(2002年『徹子の部屋』では自身の早稲田大学抹籍証明書をテレビで披露した)[12]
    • 息子が早稲田大学在籍時に大学側から「卒業生の先輩」として講演を依頼された。しかし、渡瀬はドイツ語の文法の単位が取れず卒業見込みのまま就職した自覚があったため、大学側に確認の問い合わせたところ「抹籍証明書」が戻ってきた[12]
    • 就職してからも3年間、あわせて7年間は大学に授業料を払っている。しかし、もう1年間は払わなかった。大学側からは創立100周年記念時計を送られきて「大学卒業したのかな」という認識があった。当時渡瀬は見込みが甘かったことを認めている[12]
  • 動物好きで有名[81]。特に犬が好き、理由は「朝起こされて、散歩に行って…と生活が律せられるのがいい[34]『南極物語』で共演した犬のタロとジロを撮影休止のため帰国している間、監督に世話したいと自ら志願。撮影が終わってからも「厳しい環境には戻せない」と自宅に引き取った[82]。自宅近くの公園によく犬を連れて散歩しに来ている姿が目撃されていた[81]。25年以上に渡り、東映のカレンダーには自分の飼っている犬と2ショットで登場していた[83]
受賞[編集]           渡瀬恒彦

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軌跡

(幼少期~高校時代)

幼少期はガキ大将[3]だった。同じ小学校に通った同級生は「恒ちゃんは、ガキ大将で、けんかがものすごく強かった。友だちをいじめた相手に『何やってるんや』と向かっていき、兄貴肌で慕われていた」と懐かしんだ[4]。生誕した島根県から兵庫県津名郡淡路町(当時)に移り、三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。中学の入学試験で「あの野郎2番の成績で入って来た」と兄・渡哲也が回想していたが中学三年で柔道黒帯[3][5]。高校時代は水泳部に所属。当時から同世代の女子に人気があり運動会には渡瀬目当ての女子学生が押しかけてきて大変だったという

(デビュー~演技開眼)

「現場では10代の新人でも70、80歳代のベテランでもみんな同じライバル」[9] という渡瀬にとって、錚々たる俳優の中で唯一競争できる要素が「アクション」だった[9]。人並外れた身体能力の高さから、当初は東映のアクションスターのホープとして期待された[17]

そんなやんちゃで熱い渡瀬を東映京都撮影所でも次第に認められ、中島貞夫工藤栄一深作欣二山下耕作といった監督を始めあらゆる人から「恒さん」と呼ばれるようになった。東映京都撮影所では若い人を通常「○○ちゃん」、「○○ぽん」と呼ぶため渡瀬の「恒さん」は別格だった[19]

中島貞夫は渡瀬が演技に開眼したのは「現代やくざ 血桜三兄弟」(1971年)における荒木一郎との出会いと話している[20]。ある三兄弟の末弟を演じた渡瀬が、もぐらと仇名される気弱な男を演じる荒木一郎と不思議な友情で結ばれるあるシーン。2人には長回しするからと事前に伝えてあったが、どちらが言い出したのか2人だけでリハーサルを行っていた。妙にウマも合ったのか、演技にはうるさい荒木の影響を受けて、それまでのただ生身をぶつけるような演技から変貌を遂げた[21]

(円熟期)

存命中、本人の口から語られることはなかったが、ごく一部の人間のみが知る事実として、1994年に脳梗塞を起こした際、左手に軽い障害が残ったといわれ、それが従来の屈強な渡瀬のイメージと併せ人間味が溢れる類まれな存在感が出てきたきっかけと見る向きもある。脳梗塞がきっかけで「最高の仕事をするために」煙草をスッパリやめ、酒は適量なら血流にいいと言われる赤ワインだけにした。連日のように1時間歩き、趣味のカメラで道端の花を撮影していた姿が目撃されている[35]

この頃も「忠臣蔵外伝 四谷怪談」(1994年)など話題作の映画にも出演していたが、1992年から主演を続けてきた「十津川警部シリーズ」や「タクシードライバーの推理日誌」など、次第にテレビドラマへの出演本数が多くなる。