この想いでサイトは、 鈴木 よね(鈴木商店店主・幻の総合商社)さまを永遠に承継するために作成されました。
享年85歳 、誕生日 1852年8月、命日 1938年5月6日 (誕生日は不明のため仮定で10日とする)
※メッセージの投稿や、想いでの共有はサインイン(記帳)で可能になります。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:鈴木よね(すずき よね)
戒名:寂光院 釈尼
墓地:追谷墓園
鈴木商店(すずきしょうてん)は、かつて存在(登記上は現存)した日本の財閥、商社。樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目の会員企業となる。
大正6年には当時の日本のGNPの一割に匹敵する現在の価値で50兆円を売り上げる総合商社となった。
現在でも双日や、豊年製油(現・J-オイルミルズ)、神戸製鋼所など鈴木商店の流を汲む会社が日本の大手産業企業となっている。
姫路市米田町の塗師(仏壇の漆塗り)丹波屋西田仲右衛門の三女として生まれる。よねは、父仲右衛門の主家で同業の「塗師惣」こと福田惣平の次男に嫁いだが、まもなく離婚してしまう。よねの長兄二代目仲右衛門は、家業を継がず神戸に出て洋銀両替商として既に名を成すまでになっていた。この兄仲右衛門の縁でよね26歳の時、神戸の砂糖商鈴木岩治郎と再婚した。男児3人を儲けるが、次男米太郎は7歳で病死。
金子直吉が鈴木商店に入店したのは、よねが嫁いでから9年後の明治19(1886)年、直吉20歳、よね34歳の時であった。主人岩治郎は、気性激しく度々、直吉を叱責したばかりか仕事も貸し金の取立てばかりで単調であったため、金子は病気を口実に郷里土佐に舞い戻ってしまった。
よねは、直吉の商才を見抜いており、再三呼び戻しの手紙を送って直吉の再出発を促したことから、直吉の主家に対する永い信頼関係が始まる。先代岩治郎は、洋糖引取商として独立し神戸有力八大貿易商の一つに数えられるまでに発展したが、独立後20年ほどの明治27(1894)年、急逝してしまう。
よねの兄西田仲右衛門、岩治郎の主家筋に当たるカネ辰藤田商店の店主・藤田助七はじめ親戚筋からは廃業を勧められるも自らが主人となって事業を継続する道を選び、金子直吉と柳田富士松の二人の番頭を全面的に信頼し、新たな船出に乗り出すことになった。
鈴木商店の経営には、一切口出しせず、金子に経営すべてを委ねた店主よねは、一方で臨済宗祥龍寺の再興に力を尽くすほか、神戸女子商業の設立を支援するなど地元神戸に少なからず貢献したことが知られている。作家玉岡かおるの「お家さん」には、よねの波乱に満ちた人生が描かれている。
鈴木商店破綻という歴史的な出来事の前年・昭和元(1926)年、よねは、フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章を贈られた。鈴木商店が仏・レール・リキッド社に莫大な特許料を払い、クロード式窒素工業を軌道に乗せた功績が評価されたものである。
鈴木商店の命運を左右する金子直吉の必死の巻き返しも叶わず、ついに運命の日・昭和2(1927)年4月2日を迎えた。かねてから覚悟していた店主よねは、鈴木商店破綻が決まった時、泰然自若として顔色ひとつ変えなかったという。
ことここに至ってもお家さん・よねの金子に対する信頼は揺らぐことなく、「たとえ店はこんなになっても金子が生きていりゃ千人力じゃ」と柳田に洩らしたと伝えられている。
鈴木商店本社(前・ミカドホテル、1918年以前)
神戸市中央区東川崎町
「明治・大正の産業革命の源泉」は、鈴木商店から発せられた。
享年85歳 、誕生日 1852年8月、命日 1938年5月6日 (誕生日は不明のため仮定で10日とする)
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※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:鈴木よね(すずき よね)
戒名:寂光院 釈尼
墓地:追谷墓園
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鈴木商店(すずきしょうてん)は、かつて存在(登記上は現存)した日本の財閥、商社。樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目の会員企業となる。
大正6年には当時の日本のGNPの一割に匹敵する現在の価値で50兆円を売り上げる総合商社となった。
現在でも双日や、豊年製油(現・J-オイルミルズ)、神戸製鋼所など鈴木商店の流を汲む会社が日本の大手産業企業となっている。
姫路市米田町の塗師(仏壇の漆塗り)丹波屋西田仲右衛門の三女として生まれる。よねは、父仲右衛門の主家で同業の「塗師惣」こと福田惣平の次男に嫁いだが、まもなく離婚してしまう。よねの長兄二代目仲右衛門は、家業を継がず神戸に出て洋銀両替商として既に名を成すまでになっていた。この兄仲右衛門の縁でよね26歳の時、神戸の砂糖商鈴木岩治郎と再婚した。男児3人を儲けるが、次男米太郎は7歳で病死。
金子直吉が鈴木商店に入店したのは、よねが嫁いでから9年後の明治19(1886)年、直吉20歳、よね34歳の時であった。主人岩治郎は、気性激しく度々、直吉を叱責したばかりか仕事も貸し金の取立てばかりで単調であったため、金子は病気を口実に郷里土佐に舞い戻ってしまった。
よねは、直吉の商才を見抜いており、再三呼び戻しの手紙を送って直吉の再出発を促したことから、直吉の主家に対する永い信頼関係が始まる。先代岩治郎は、洋糖引取商として独立し神戸有力八大貿易商の一つに数えられるまでに発展したが、独立後20年ほどの明治27(1894)年、急逝してしまう。
よねの兄西田仲右衛門、岩治郎の主家筋に当たるカネ辰藤田商店の店主・藤田助七はじめ親戚筋からは廃業を勧められるも自らが主人となって事業を継続する道を選び、金子直吉と柳田富士松の二人の番頭を全面的に信頼し、新たな船出に乗り出すことになった。
鈴木商店の経営には、一切口出しせず、金子に経営すべてを委ねた店主よねは、一方で臨済宗祥龍寺の再興に力を尽くすほか、神戸女子商業の設立を支援するなど地元神戸に少なからず貢献したことが知られている。作家玉岡かおるの「お家さん」には、よねの波乱に満ちた人生が描かれている。
鈴木商店破綻という歴史的な出来事の前年・昭和元(1926)年、よねは、フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章を贈られた。鈴木商店が仏・レール・リキッド社に莫大な特許料を払い、クロード式窒素工業を軌道に乗せた功績が評価されたものである。
鈴木商店の命運を左右する金子直吉の必死の巻き返しも叶わず、ついに運命の日・昭和2(1927)年4月2日を迎えた。かねてから覚悟していた店主よねは、鈴木商店破綻が決まった時、泰然自若として顔色ひとつ変えなかったという。
ことここに至ってもお家さん・よねの金子に対する信頼は揺らぐことなく、「たとえ店はこんなになっても金子が生きていりゃ千人力じゃ」と柳田に洩らしたと伝えられている。
鈴木商店本社(前・ミカドホテル、1918年以前)
神戸市中央区東川崎町
「明治・大正の産業革命の源泉」は、鈴木商店から発せられた。
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