この想いでサイトは、私たちの愛する人 吉本 せい(吉本興業創業者)さんを追悼するために作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
父・林豊次郎は、吉本せい(林せい)が10歳の頃に大阪府北区同心町2丁目へと移り住み米穀商・金融業を営むようになった。
吉本せい(林せい)は、子供の頃から優秀で大阪で有数な島徳蔵や鴻池家に上女中として奉公に上がり、奉公が明けると実家の商売を手伝った。
そして林家と取引していた老舗の荒物問屋「箸吉・はしきち」の跡取り息子・吉本泰三(吉本吉兵衛)に見初められ結婚した。
吉本泰三は、働き者という評判で吉本泰三と結婚した.
吉本せい(林せい)は荒物問屋「箸吉」のごりょうさんとして幸せな生活を送るはずだった。
ところが、2人が結婚する前に吉本泰三の母・吉本ミネが死去し、吉本ユキ(出口ユキ)が吉本家に後妻として入ったことから運命が大きく変わる。
吉本泰三は継母・吉本ユキと上手くいっていなかったのか、ちょうど吉本せい(林せい)と結婚した頃から家業を放り出して芸人遊びに身を入れるようになってしまった。
終いに吉本泰三は、旦那芸で覚えた剣舞に入れ込み「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」の太夫元(興行主)となり地方巡業に出て、巡業の度に借金を膨らませていた。
その後、吉本泰三は芸人遊びをしていた関係から天満天神裏の三流の寄席「第二文芸館」の権利を購入し、明治45年(1912年)4月1日に寄席の経営を開始し、大正2年(1913年)1月に「吉本興業部(吉本興業)」を設立する。
吉本せいは「第二文芸館」の権利を購入する資金繰りに奔走し、実家の林家と金貸しから金を借りて「第二文芸館」の権利を購入した。
そして創業初期に林正之助が呼び寄せられ、創業者・吉本泰三の死後、長らく吉本興業の経営を担ってきたため林家が「吉本興業の創業家」と呼ばれることがある。
しかし、あくまでも吉本興業の創業家は吉本家であり、林家は創業家の傍系である。
小説[編集]舞台[編集]
先に見えない時代に生きていても、暗い顔をせず、笑いを愛し、笑いが世の中を明るくすると信じて前向きにひたむきに生きた人生。
明治の女性は強いといいますが、同じく明治・大正と活躍した「白岡あさ」もまた、女性ながらにして商売に目覚めた女性が大阪に生きていたこと、白岡あさもまた、朝ドラのモデルとなっていますね。
平成の現代、女性が強くなったといわれていますが、実は、いつの世も、女性は強かったのかもしれませんね
本名は亀井 静子(かめい しずこ)。戦前から戦後にかけて活躍し、特に戦後は「ブギの女王」として一世を風靡した。シヅ子の歌は今日に至るまでたびたびカヴァーされ、日本のポップスに多大な影響を与え続けている。
なんばグランド花月ビル 大阪市中央区難波千日前11-6
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父・林豊次郎は、吉本せい(林せい)が10歳の頃に大阪府北区同心町2丁目へと移り住み米穀商・金融業を営むようになった。
吉本せい(林せい)は、子供の頃から優秀で大阪で有数な島徳蔵や鴻池家に上女中として奉公に上がり、奉公が明けると実家の商売を手伝った。
そして林家と取引していた老舗の荒物問屋「箸吉・はしきち」の跡取り息子・吉本泰三(吉本吉兵衛)に見初められ結婚した。
吉本泰三は、働き者という評判で吉本泰三と結婚した.
吉本せい(林せい)は荒物問屋「箸吉」のごりょうさんとして幸せな生活を送るはずだった。
ところが、2人が結婚する前に吉本泰三の母・吉本ミネが死去し、吉本ユキ(出口ユキ)が吉本家に後妻として入ったことから運命が大きく変わる。
吉本泰三は継母・吉本ユキと上手くいっていなかったのか、ちょうど吉本せい(林せい)と結婚した頃から家業を放り出して芸人遊びに身を入れるようになってしまった。
終いに吉本泰三は、旦那芸で覚えた剣舞に入れ込み「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」の太夫元(興行主)となり地方巡業に出て、巡業の度に借金を膨らませていた。
その後、吉本泰三は芸人遊びをしていた関係から天満天神裏の三流の寄席「第二文芸館」の権利を購入し、明治45年(1912年)4月1日に寄席の経営を開始し、大正2年(1913年)1月に「吉本興業部(吉本興業)」を設立する。
吉本せいは「第二文芸館」の権利を購入する資金繰りに奔走し、実家の林家と金貸しから金を借りて「第二文芸館」の権利を購入した。
そして創業初期に林正之助が呼び寄せられ、創業者・吉本泰三の死後、長らく吉本興業の経営を担ってきたため林家が「吉本興業の創業家」と呼ばれることがある。
しかし、あくまでも吉本興業の創業家は吉本家であり、林家は創業家の傍系である。
- 1889年12月5日、兵庫県明石市で米穀商の三女(第4子)として出生。
- 1910年4月の20歳の時に、大阪市東区(現・中央区)内本町橋詰町の「箸吉(はしよし)」の息子吉本吉兵衛(通称:吉本泰三)と結婚(実際には1907年12月の18歳のころから結婚生活であった)。「箸吉」は、高級料亭に箸を納める老舗荒物問屋であった。
- 1912年(明治45年)4月1日、夫婦で天満八軒[注釈 1]の一つ「第二文芸館」を買収し、寄席経営をはじめる。
- 1913年(大正2年)1月、大阪市南区笠屋町(現・大阪市中央区東心斎橋)に「吉本興行部」を設立。
- 1928年(昭和3年)、紺綬褒章を受章[1]。
- 1932年(昭和7年)3月1日に吉本興行部を改組する形で「吉本興業合名会社」を発足。
- 1948年1月7日、吉本興業合名会社から「吉本興業株式会社」に改組。会長に就任。
- 1950年3月14日、肺結核で死去。享年60。
小説[編集]舞台[編集]
- 芸術座公演『花のれん』(1958年、演出:菊田一夫、演:三益愛子、役名は「河島多加」)
- 芸術座公演『おもろい女』(1978年 - 2006年、演出:早野寿郎、演:青木玲子、役名は「菱本せつ」)
- 帝国劇場公演『桜月記-女興行師 吉本せい』(1991年、原作:矢野誠一、演:森光子)
- 吉本興業創業100周年記念公演『吉本百年物語』(2012年、なんばグランド花月)
- 新橋演舞場・博多座公演『笑う門には福来たる〜女興行師 吉本せい〜』(2014年、演:藤山直美)
- 東宝公演『おもろい女』(2015年、演:正司花江、役名は「菱本せつ」)
- 大阪松竹座公演『笑う門には福来たる〜女興行師 吉本せい〜』(2016年、演:藤山直美)
先に見えない時代に生きていても、暗い顔をせず、笑いを愛し、笑いが世の中を明るくすると信じて前向きにひたむきに生きた人生。
明治の女性は強いといいますが、同じく明治・大正と活躍した「白岡あさ」もまた、女性ながらにして商売に目覚めた女性が大阪に生きていたこと、白岡あさもまた、朝ドラのモデルとなっていますね。
平成の現代、女性が強くなったといわれていますが、実は、いつの世も、女性は強かったのかもしれませんね
笠置シヅ子は、吉本穎右と知り合って交際、妊娠に至るも穎右を吉本の後継者にさせることを熱望していたせいは断固として結婚を認めなかった。「歩み」コーナー家系図にてご覧ください。
笠置 シヅ子(かさぎ シヅこ、1914年(大正3年)8月25日 - 1985年(昭和60年)3月30日)は、日本の歌手、女優。本名は亀井 静子(かめい しずこ)。戦前から戦後にかけて活躍し、特に戦後は「ブギの女王」として一世を風靡した。シヅ子の歌は今日に至るまでたびたびカヴァーされ、日本のポップスに多大な影響を与え続けている。
なんばグランド花月ビル 大阪市中央区難波千日前11-6
- ※注:このサイトは、吉本せいに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・
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吉本せいは無名芸人たちが生活に困窮し亡くなっていくのに心を痛め、生前に「芸人塚」を建立する事を考えていました。 その吉本せいの娘である辻阪邦子が遺志を継ぎ1993年に建立
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