この追悼サイトは、 歌手・作詞家 葛城 ユキさまのために作成されました。
享年73歳 、誕生日 1949年5月25日、命日 2022年6月27日
※ 歌手・作詞家 葛城さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
葛城 ユキ(かつらぎ ユキ、1949年〈昭和24年〉5月25日[2] - 2022年〈令和4年〉6月27日[3])は、日本の歌手。身長167cm。既婚。
ラジオシティレコード(後のアポロン音楽工業→エモーション→ランティス→バンダイナムコアーツ、現:バンダイナムコミュージックライブ) → テイチクレコード(現:テイチクエンタテインメント)、→ 東芝EMI(現:ユニバーサルミュージック)を経て最終的にインディーズで活動。独特のハスキーボイスを持ち味とする[4]。元は大友裕子のカバー曲であった「ボヘミアン」が、葛城の代表曲として広く知られている。
岡山県川上郡川上町(現・高梁市)出身。本名は田中小夜子。片山女子高等学校(現:倉敷翠松高等学校)卒業[5]。
高校時代はバレーボール部のアタッカーとして活躍してキャプテンも務め、国体に2回、全国高等学校総合体育大会バレーボール競技大会に1回出場[5]。実業団から声がかかり、卒業後倉敷紡績に入社するも、葛城の身長は実業団の選手内では低身長となり、ネットの高さも学生時代より高くなるなどアタッカーでは無理だとのことで「セッターへの転向を言い渡された。私はアタッカー。中心にいないと嫌だった」という理由で1ヶ月で退社[5]。元々音楽をやりたいという夢もあり、家出同然で大阪に移住し、音楽スクールに通い始める[6]。
1973年の第6回ヤマハポピュラーソングコンテストに朝霧マチ名義で出場し「小さな出発」で歌唱賞を受賞。
1974年に葛城ゆきに改名[1]。この名付け親はヤマハ音楽振興会理事長などを務めていた川上源一で、当時、昔からの言い伝えがある地名などに興味を持っていたことで、奈良県の葛城に由来する源氏物語の中の一文「かづらきあそび給ふはなやかにおもしろし」から葛城を採り、下の名前は葛城とのバランスを考えて付けた[1]。翌年の第7回では「木曾は山の中」を歌い最優秀賞を受賞。同年秋の第5回世界歌謡祭でも同曲で川上賞に入賞し、同年メジャーデビュー。当初はロックではなく、ニューミュージック系だった。後に1970年代中にゆきから「ユキ」に改名[1]。
1980年にボニー・タイラーの「Sitting on the Edge of the Ocean」のカバー曲「哀しみのオーシャン」がヒット。同年、ファーストアルバム『寡黙』をリリース。1983年に飛鳥涼と井上大輔が大友裕子に提供した「ボヘミアン」をカバーし大ヒット。自身の代表作となる。
晩年は夢グループ主催「夢スター歌謡祭 春組対秋組歌合戦」に出演するなど全国各地を回っていた。
2021年4月26日、ステージ4の原発性腹膜がんを患っていることを発表。歌謡ユニット「夢スター 春・秋」の平浩二がクモ膜下出血で緊急搬送されたことなどをきっかけに人間ドックを受診した結果、判明したものであった[11]。同月26日と27日に行われるコンサートは予定通り行い、29日は「NAONのYAON2021」に参加。翌5月より2回手術を受けて10ヶ月入院した上で治療に専念した[11]。
2022年5月17日には千葉県成田市の成田国際文化会館で行われたジョイントコンサート「夢スター 春・秋」に葛城と同じく病気療養中であったあべ静江と共に車椅子で出演。一曲のみの歌唱であったものの約1年ぶりにステージへ復帰したが、復帰ステージの翌週に体調が悪化。再入院せずに在宅療養をしつつも6月17日には葛城の強い希望で夢コンサートに出演し、昼の部では「ローズ」を消えいるような声で一曲のみ歌唱した。これが生前、公の場での最後の歌唱となった。夜の部は体調悪化で歌える状態ではなく介護ベッドに横たわって登場して「私の人生は感謝、感謝です」とファンや共演歌手に伝えたのがラストステージとなった。
その後「数日しか生きられない」と余命宣告されると6月24日から亡くなる直前まで学生時代の恩師など生前お世話になった人達に「今までありがとう」などと感謝の電話をかけていたという。同年6月27日、腹膜がんのため都内の病院で死去。73歳没[3]。
収録アルバム
享年73歳 、誕生日 1949年5月25日、命日 2022年6月27日
※ 歌手・作詞家 葛城さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
葛城 ユキ(かつらぎ ユキ、1949年〈昭和24年〉5月25日[2] - 2022年〈令和4年〉6月27日[3])は、日本の歌手。身長167cm。既婚。
ラジオシティレコード(後のアポロン音楽工業→エモーション→ランティス→バンダイナムコアーツ、現:バンダイナムコミュージックライブ) → テイチクレコード(現:テイチクエンタテインメント)、→ 東芝EMI(現:ユニバーサルミュージック)を経て最終的にインディーズで活動。独特のハスキーボイスを持ち味とする[4]。元は大友裕子のカバー曲であった「ボヘミアン」が、葛城の代表曲として広く知られている。
岡山県川上郡川上町(現・高梁市)出身。本名は田中小夜子。片山女子高等学校(現:倉敷翠松高等学校)卒業[5]。
高校時代はバレーボール部のアタッカーとして活躍してキャプテンも務め、国体に2回、全国高等学校総合体育大会バレーボール競技大会に1回出場[5]。実業団から声がかかり、卒業後倉敷紡績に入社するも、葛城の身長は実業団の選手内では低身長となり、ネットの高さも学生時代より高くなるなどアタッカーでは無理だとのことで「セッターへの転向を言い渡された。私はアタッカー。中心にいないと嫌だった」という理由で1ヶ月で退社[5]。元々音楽をやりたいという夢もあり、家出同然で大阪に移住し、音楽スクールに通い始める[6]。
1973年の第6回ヤマハポピュラーソングコンテストに朝霧マチ名義で出場し「小さな出発」で歌唱賞を受賞。
1974年に葛城ゆきに改名[1]。この名付け親はヤマハ音楽振興会理事長などを務めていた川上源一で、当時、昔からの言い伝えがある地名などに興味を持っていたことで、奈良県の葛城に由来する源氏物語の中の一文「かづらきあそび給ふはなやかにおもしろし」から葛城を採り、下の名前は葛城とのバランスを考えて付けた[1]。翌年の第7回では「木曾は山の中」を歌い最優秀賞を受賞。同年秋の第5回世界歌謡祭でも同曲で川上賞に入賞し、同年メジャーデビュー。当初はロックではなく、ニューミュージック系だった。後に1970年代中にゆきから「ユキ」に改名[1]。
1980年にボニー・タイラーの「Sitting on the Edge of the Ocean」のカバー曲「哀しみのオーシャン」がヒット。同年、ファーストアルバム『寡黙』をリリース。1983年に飛鳥涼と井上大輔が大友裕子に提供した「ボヘミアン」をカバーし大ヒット。自身の代表作となる。
晩年は夢グループ主催「夢スター歌謡祭 春組対秋組歌合戦」に出演するなど全国各地を回っていた。
2021年4月26日、ステージ4の原発性腹膜がんを患っていることを発表。歌謡ユニット「夢スター 春・秋」の平浩二がクモ膜下出血で緊急搬送されたことなどをきっかけに人間ドックを受診した結果、判明したものであった[11]。同月26日と27日に行われるコンサートは予定通り行い、29日は「NAONのYAON2021」に参加。翌5月より2回手術を受けて10ヶ月入院した上で治療に専念した[11]。
2022年5月17日には千葉県成田市の成田国際文化会館で行われたジョイントコンサート「夢スター 春・秋」に葛城と同じく病気療養中であったあべ静江と共に車椅子で出演。一曲のみの歌唱であったものの約1年ぶりにステージへ復帰したが、復帰ステージの翌週に体調が悪化。再入院せずに在宅療養をしつつも6月17日には葛城の強い希望で夢コンサートに出演し、昼の部では「ローズ」を消えいるような声で一曲のみ歌唱した。これが生前、公の場での最後の歌唱となった。夜の部は体調悪化で歌える状態ではなく介護ベッドに横たわって登場して「私の人生は感謝、感謝です」とファンや共演歌手に伝えたのがラストステージとなった。
その後「数日しか生きられない」と余命宣告されると6月24日から亡くなる直前まで学生時代の恩師など生前お世話になった人達に「今までありがとう」などと感謝の電話をかけていたという。同年6月27日、腹膜がんのため都内の病院で死去。73歳没[3]。
収録アルバム
楽曲一覧
※注:このサイトは、葛城ユキに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝