承継
この追悼サイトは、 尾崎 豊(シンガーソングライター)さまのために作成されました。

享年26歳 、誕生日 1965年11月29日、命日 1992年4月25日
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尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年昭和40年〉11月29日[1] - 1992年平成4年〉4月25日[1])は、日本シンガーソングライター青山学院高等部中退[1]血液型はB型[2][3][4]身長178cm。既婚。

概略[編集]1983年昭和58年)12月シングル15の夜」とアルバム十七歳の地図』で高校在学中にデビュー[1][5]。ライブでの派手なパフォーマンスや、夢や愛、生きる意味をストレートに曲にし、同世代の若者たちから大きな人気を得た。

1992年平成4年)4月、26歳で急死し、メディアにて連日報道がされた[注釈 2]。死後30年を過ぎてもなお幅広く支持され、楽曲は多くのアーティストにカバーされている[5][6]

ジャクソン・ブラウンブルース・スプリングスティーンビリー・ジョエル浜田省吾佐野元春井上陽水アナーキー甲斐バンドさだまさしなどから強い影響を受けている[3][7][8]

長男の尾崎裕哉は、同じくシンガーソングライターとして活動。

尊敬する浜田省吾の個人事務所であるロード&スカイも短期間で契約を解除した[31]。個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を立ち上げるも経営面の管理のほかにプロモートからライブスケジュールを自ら取り仕切らなければならず、多忙な日々を送る中で、再び精神的に追い詰められた尾崎は自殺を図るなど混迷を深めていった[32]。その後、遺作となる『放熱への証』の制作に取りかかるが、1991年(平成3年)末に母親が急死。交友関係も狭くなっていき、精神的状況はさらに悪い方向へ向かっていた。

20代になってからの尾崎は、かつての「自由」「反支配」といったものとは違い、「真実の愛」「贖罪」「罪」といったものを主題にした歌を多く作っていった。

26歳での突然死[編集]1992年(平成4年)4月25日(土)早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを、家主の妻に発見された[33]。5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる[34]。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが[35]、尾崎は妻と兄とともに自宅マンションに戻る[35]。しかし、10時頃になって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。日本医科大学付属病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡した[1][36][37][38]。死因は肺水腫[39](詳細は後述)。

後日、雨の降る中4月30日(木)東京都文京区護国寺にて葬儀・追悼式が行われ、参列者は4万人近く[注釈 5]に上り、規模は美空ひばり吉田茂に匹敵するものとなった[注釈 6]。密葬は日蓮正宗にて営まれた。戒名は「頌弦院智心碩豊居士」[41]墓所は埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園にある[注釈 7][42]

人物[編集]クールで尖ったイメージのある尾崎だが、プライベートの尾崎は明るい好青年であった。

当時はロックバンド「OZONE」でボーカルとして活躍し、尾崎と同じCBS・ソニーに所属していた俳優の坂上忍は、インタビューで「尾崎はいつも暗い顔して写真に写ってたけど、プライベートはホントに明るくて。こっちのほうがよっぽど暗かったですから。『忍ちゃーん!』とか言って登場して来るぐらいですからね」と語っている[53]。別の対談では、坂上は尾崎のファースト・アルバムを聴いて「クドくない?」と思ったという。坂上は一度だけ尾崎と2人きりで飲む機会があったが、そこで尾崎から「もう曲が書けない」という本音を聞いた。それでも尾崎が(吉川晃司本田恭章を含めた)4人の中では最後まで歌い続けるだろうと思ったが、26歳の若さで誰よりも先に亡くなるとは信じられなかったと語っている[54]

2013年(平成25年)12月1日にWOWOWで放送された『尾崎豊デビュー30周年記念日-THE DAY』で、尾崎の曲のアレンジャーも務めたギタリストの町支寛二は「話を交わすときはいつも純真な青年ってイメージで。だから初めてライブを観に行ったとき、スイッチがひとつ入っちゃう感じに鳥肌が立ちましたね」と述べた。また、RED WARRIORSの小川清史は「リハーサルの間に「実は尾崎、俺『Bow!』って曲凄く好きなんだ」って言ったら、顔をくしゃくしゃにして『本当?』って喜んでくれて」と語っている[55]

1991年(平成3年)の「1991 BIRTH TOUR」のサポート・ベーシストを務めた渡辺茂は「初対面のときに、それまでいろんな仲間から変わってる奴だと散々聞いてたが、普段は礼儀正しくて大人しかった。でもステージの上では破壊的で、跳ぶわ、ピアノの上に寝るわでびっくりしました」と述べた。サクソフォーンを担当した関誠一郎は「服装は派手だけど、普通の人で、気さくな感じだ」と、パーカッションの里村美和は「熊本(熊本県・阿蘇で行われたロックイベントBEAT CHILDのこと)で僕が佐野元春とやってるときに初めて会ったんだけど、真面目で礼儀正しいやつだと思った」と語っている[56]

また、10代のころは尾崎自身のカリスマ性やイメージを保つために、写真はすべてモノクロームで掲載され、笑顔の写真も自粛された。

作品[編集]
詳細は「尾崎豊の作品」を参照
書籍[編集]著書[編集]写真集[編集]渋谷クロスタワーの敷地内にあります。
       尾崎豊記念碑  東京都渋谷区渋谷2-15-1

尾崎豊さんが愛用していたギターと尾崎さんの映像=所沢市
        尾崎豊が愛用していたギターと、尾崎豊の映像

※注:このサイトは、尾崎豊に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2023年7月3日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
身を削るほどの思いをしなければならないくらい「曲」を作ることは大変な事だと推察いたします。 でも、これだけの才能溢れるミュージシャンだけに、湧き水が溜まるように、もっと生きて活躍して欲しかった。
尾崎さんが生前に残した楽曲は71曲。 世代を超えて今も聴き継がれています。
                                合掌

メッセージの投稿

 
メッセージ
このメッセージは、 2023年7月3日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
身を削るほどの思いをしなければならないくらい「曲」を作ることは大変な事だと推察いたします。 でも、これだけの才能溢れるミュージシャンだけに、湧き水が溜まるように、もっと生きて活躍して欲しかった。
尾崎さんが生前に残した楽曲は71曲。 世代を超えて今も聴き継がれています。
                                合掌
軌跡

(幼少ー学生時代)

1965年昭和40年)11月29日東京都世田谷区自衛隊中央病院にて、陸上自衛隊防衛事務官の尾崎健一と妻の絹枝の次男として生まれる[1]。兄弟は5歳年上で、弁護士・元裁判官・埼玉弁護士会長の兄、尾崎康がいる。練馬区で育ち、練馬区立田柄第二保育園から練馬区立田柄第二小学校に入学した[1]が、1976年(昭和51年)8月、尾崎が小学5年生の時に埼玉県朝霞市へ転居し[9]、朝霞市内の公立小学校へ通う[1]。しかし、転校先の学校に馴染めず、毎朝登校するふりをして家を出たあと1時間ほどして家に帰り、実際には登校していない日々が続くようになった[9]。尾崎が音楽に触れるきっかけとなったのは、兄が購入して使用されていなかったクラシック・ギターを手に取り始めたことであった[9]。あらゆるフォークソングシンガーソングライターの曲に興味を持っていた尾崎は、特に井上陽水が描き出す詞の世界観に強く惹かれていた[9]。小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続けており、その間、井上陽水やさだまさしイルカの曲をギターを弾きながら歌う日々が続いていた[

(デビュー~10代全盛期)

高校2年生の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎はCBS・ソニーが主催した『CBS/SONY Sound Development Audition 1982』、ビクター主催のオーディションにそれぞれ応募し[20]、CBS・ソニーのオーディションに合格する[1][21]

尾崎は浜田省吾の音楽が好きで[8]、プロデューサーの須藤晃も作品の匂いに浜田との共通点を感じて[8]、デビュー・アルバム『十七歳の地図』のレコーディングには浜田省吾と佐野元春のツアーバンドを半々起用した[8][22]。『十七歳の地図』は初回プレスが2,000枚ほどであり[23][24]、事務所やレコード会社も積極的なプロモーションも行わなかったためにセールスは伸び悩んだ。

その後口コミにより人気が出て、4thシングル「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり[25]、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録[26]、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった[5]

特に10代のころは「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」などと呼ばれた[27][28]校内暴力や学生による飲酒・喫煙が横行し、偏差値教育や受験戦争のひずみが露呈していた時代世相と相まって一部の若者の間で社会現象となる[27][注釈 4]。10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。

(覚せい剤取締法違反で逮捕~復活~結婚)

一世風靡をした尾崎は、20歳になり方向性を見失い単身渡米するも収穫のないまま、その年の年末に帰国する。 その年の暮れに覚せい剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷する。

一方プライベートでは一般人の女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、レコード会社を古巣のCBS・ソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。