承継
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本名:黒澤 明(くろさわ あきら)
墓地安養院(神奈川県鎌倉市)、日本


日本映画監督脚本家映画プロデューサー位階従三位

第二次世界大戦後の日本映画を代表する監督であり、国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされている[3][4]。ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、ヒューマニズムを基調とした主題で知られる[3]。生涯で30本の監督作品を発表したが、そのうち16本で俳優の三船敏郎とコンビを組んだ。

青年時代は画家を志望していたが、1936年P.C.L.映画製作所1937年東宝に合併)に入社し、山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めたのち、1943年に『姿三四郎』で監督デビューした。『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目されたあと、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られた。
その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなったが、海外資本で『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、『』(1985年)、『』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けた。1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞した。没後、映画監督初の国民栄誉賞が贈られた。

画家時代[編集]

黒澤は中学在学中に画家を志し、小林萬吾主宰の同舟舎洋画研究所に通った[16]1927年に京華中学校を卒業し[10]東京美術学校の受験に失敗すると川端画学校に通い、1928年『静物』が第15回二科展に入選した[12][16]1929年には造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に通い、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家の岡本唐貴白土三平の実父)に絵を学んだ[10][16]。同年12月の第2回プロレタリア美術大展覧会では5つの政治色の強い作品を出品し[注釈 4]1930年の第3回プロレタリア美術大展覧会では『反×ポスター』を出品して官憲に撤回された[12][16][22]。そのうち政治的主張を未消化のまま絵にすることに疑問を感じ、絵を描く熱意を失っていった[23]。同年に徴兵検査を受け、父の教え子である徴兵司令官の好意で兵役免除となり[10]終戦まで徴兵されることはなかった[8]
1934年に一家は恵比寿に転居し[18]、黒澤は雑誌の挿絵を描くアルバイトなどをして生計を立てた[15]

助監督時代[編集]

1936年、どこかで就職しなければならないと思っていた黒澤は、たまたま新聞記事で見たP.C.L.映画製作所(翌年に東宝に合併)の助監督募集に応募した[15]。最初の試験は「日本映画の根本的欠陥を例示し具体的にその矯正方法を述べよ」という小論文で、黒澤は「根本的欠陥は矯正しようがない」と回答し、それで試験を通過して最終面接まで残った[25]。同社は原則として大学卒を採用するつもりだったが、黒澤の絵や文学に対する理解と才気に注目した山本嘉次郎の推薦により、学歴は旧制中学だけながら例外として合格となり、同年4月に入社した[15][26]   
 黒澤の監督処女作は『姿三四郎』(1943年)となった。1942年9月、黒澤は富田常雄同名小説の新刊書広告を見かけると、広告文だけで映画化を思い立ち、発売されるとすぐに買い求めて一気に読み、プロデューサーの森田信義を説得して映画化権を獲得させた[37]。『姿三四郎』は当時の日本映画の中で新鮮味と面白さとを合わせ持った映画的な作品として注目され、その視覚性やアクション描写、卓越した演出技術などが高く評価された[38]1943年3月に国民映画賞奨励賞を受賞し、12月には優れた新人監督に贈られる山中貞雄賞を木下惠介とともに受賞するなど[10]、黒澤は新人監督として周囲の期待を集め、東宝重役の森岩雄は「黒澤さんの監督としての地位は、この処女作一本で確立したといってもいいであろう」と述べている[37]
監督第2作の『一番美しく』(1944年)の完成後、黒澤は森田の勧めで主演の矢口陽子(本名は喜代)と結婚し、1945年3月頃に山本夫妻の媒酌で明治神宮で結婚式を挙げた[39][40]
1948年公開の『醉いどれ天使』は、山本監督の『新馬鹿時代』(1947年)で使われた闇市の大規模なオープンセットを活用するための企画として作られた[16]この作品では『銀嶺の果て』でデビューしたばかりの三船敏郎と初めてコンビを組み、主人公の結核を患う若いヤクザ役に起用した。また、『姿三四郎』から黒澤作品に出演していた志村喬をアル中医師役で初めて主役に抜擢し、以後は黒澤作品の主役を三船と志村とで分け合う時期が続いた[44]作曲家の早坂文雄とも初めてコンビを組んでおり、1955年に早坂が亡くなるまで二人は私生活でも親友関係となった[45]。『醉いどれ天使』は黒澤作品で初めての傑作と目され、キネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールで日本映画大賞を受賞した[46]

国際的名声の獲得[編集]

1950年、黒澤は松竹で『醜聞』を監督後、大映から再び映画製作を依頼されて『羅生門』を監督した。この作品は橋本忍芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色したシナリオを元にしており、武士の殺害事件をめぐり関係者の証言が全部食い違い、その真相が杳として分からないという内容だった。しかし、その内容だけでは長編映画として短すぎるため、黒澤が同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードなどを付け足して脚本を完成させた[49]。作品はその年度の大映作品で4位の興行成績を収めたが、批評家の評価はあまり芳しいものではなかった[16][50]。しかし、1951年9月にヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、さらに第24回アカデミー賞名誉賞を受賞するなど、海外で相次ぐ賞賛を受けた黒澤は映画祭に出品されたことすら知らず、釣りの帰りに妻から連絡を受けたという[51]。『羅生門』は欧米が日本映画に注目するきっかけとなり、日本映画が海外進出する契機にもなった。また、複数の登場人物の視点から1つの物語を描く話法は、同作で映画の物語手法の一つとなり、多くの作品で繰り返し使われることになった[16]
黒澤は次に本物の時代劇を作ろうと意気込み、橋本と『侍の一日』を構想するが資料不足で断念し、盗賊から村を守るために百姓が侍を雇うという話を元にして『七人の侍』(1954年)の脚本を執筆した[54][55]。撮影は1953年5月に開始したが、製作費と撮影日数は予定より大幅超過し、最終的に撮影日数は約11ヶ月に及び、通常作品の5倍以上にあたる予算を計上した[56]。作品は興行的に大成功したが、公開当時の国内では必ずしも高評価を受けることはなかった[56]ヴェネツィア国際映画祭に出品されると銀獅子賞を受賞し[57]、その後は日本国内でも国外でも映画史上の名作として高く評価されるようになり[54]2018年イギリスBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」で1位に選ばれた[58]
1957年10月、黒澤はロンドンナショナル・フィルム・シアター英語版)の開館式に招待され、初めての海外渡航を行った[61]。10月15日の開館式では、映画芸術に貢献した映画人としてジョン・フォードルネ・クレールヴィットリオ・デ・シーカローレンス・オリヴィエとともに表彰された[61]。その翌日には第1回ロンドン映画祭の開会式に出席し、『蜘蛛巣城』がオープニング上映された[61]。黒澤はフォードを尊敬し、彼の作品から影響を受けたことを公言していたが[21][30][62]、ロンドン滞在中にフォードと初めて会い、『ギデオン』の撮影現場を訪問したり、昼食を共にするなどの交友を持った[63]。その次にパリに渡り、シネマテーク・フランセーズを訪問したり、ジャン・ルノワールと夕食を共にしたりして過ごした[63]。黒澤はこの旅行を通して映画が芸術として認知されていることを直に知り、映画人として強い自負を持つようになった[61]
リメイクと諸作品への影響[編集]これまでに黒澤作品は国内外で何度もリメイクされている。ハリウッド映画では、ジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』(1960年)が『七人の侍』、マーティン・リット監督の『暴行』(1964年)が『羅生門』を公式にリメイクし、それぞれ舞台を西部劇に移し替えている[54]セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン荒野の用心棒』(1964年)は、『用心棒』を非公式でリメイクした作品で、黒澤は東宝とともに著作権侵害で告訴し、和解に応じた製作者側から日本などの配給権と世界興行収入の15%を受け取っている[203]内川清一郎監督の『姿三四郎』(1965年)は、黒澤プロダクションが『姿三四郎』『續姿三四郎』を合わせてリメイクした作品で、黒澤自身がプロデューサーを務めた[54]

スター・ウォーズシリーズは黒澤作品から部分的な影響を受けている。ルーカスによるシリーズ1作目『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(1977年)のストーリーのアイデアは『隠し砦の三悪人』を元にしており、黒澤作品で特徴的なワイプによる場面転換も採用している[204]C-3POR2-D2は、『隠し砦の三悪人』の登場人物である百姓の太平と又七がモデルであることをルーカス自身が認めている[205]。シリーズ7作目の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015年)では、J・J・エイブラムス監督がシーンの構図とキャラクターの立ち位置を『天国と地獄』を参考にしたことを明らかにし[206]、シリーズ8作目の『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017年)では、ライアン・ジョンソン監督が脚本に『羅生』などの影響を受けたことを明らかにしている[207]
監督作品[編集]黒澤が自作と認めた監督作品は30本あり[注釈 7]、そのすべてで脚本を執筆した(共同執筆を含む)[注釈 12]。※印はプロデューサーを兼任した作品。

              Seven Samurai poster.jpg
 1960年にアメリカで西部劇「荒野の七人」としてリメイクされた。 最高の映画のリスト(英語版)に何度も選出されたいる。

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軌跡

(生い立ち)

1910年3月23日、父が勤めていた荏原中学校の職員住宅に父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれた。
勇は厳格な父親だったが、当時は教育上好ましくないと思われていた映画に理解があり進んで家族を連れて映画見物に出かけた。

((画家時代)

黒澤は中学在学中に画家を志し、小林萬吾主宰の同舟会洋画研究所に通った。
1927年に京華中学校を卒業し、東京美術学校の受験に失敗すると川端画学校に通い、1928年に油絵「静物」が第15回二科会に入選した。

(助監督時代)

1936年、どこかで就職しなければならないと思っていた黒澤は、たまたま新聞記事で見た
PCL映画製作所(翌年に東宝に合併)の助監督に応募した。 曲折はあるも
「エノケンの千万長者」(1936年)から、山本嘉次郎のサード助監督を務めた。
山本組での仕事は楽しく、充実したものであり、黒澤は映画監督こそが自分のやりたい仕事だと決心した。