承継
この追悼サイトは、 鳥山 明(「伝説の漫画家」と評価され世界中で売れた)さまのために作成されました。

享年68歳 、誕生日 1955年4月5日、命日 2024年3月1日
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鳥山 明(とりやま あきら、1955年昭和30年〉4月5日[3][4][5][6][1] - 2024年令和6年〉3月1日[7])は、日本漫画家デザイナー[8]

プロダクションはBIRD STUDIO(バード・スタジオ)。愛知県清須市[9][10][11][12][13](旧:西春日井郡清洲町)出身[注 1][2][16]妻は少女漫画家みかみなち[17]

代表作の『Dr.スランプ』の累計発行部数は3000万部を記録[18]、『ドラゴンボール』は2億6000万部を記録[19]、『ドラゴンクエストシリーズ』は、8,800万本の出荷本数を記録している[20]

日本の漫画が海外で「MANGA」と呼ばれ、世界に広まるきっかけを作った先駆者であり、数多くの文化に影響を与え、「伝説の漫画家」「史上最も影響力のある漫画家」と評価されている[21][22][23]

概要[編集]
1978年に『週刊少年ジャンプ』52号にて読み切り作品『ワンダーアイランド』でデビュー。集英社との専属契約下で『週刊少年ジャンプ』などジャンプ系列誌にて作品を発表。

代表作の『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』はいずれもテレビアニメ化され、1981年から1999年にかけてフジテレビ系列の毎週水曜日19時 - 19時30分にて『Dr.スランプ アラレちゃ』から始まり、『ドラゴンボール』『ドラゴンボールZ』『ドラゴンボールGT』『ドクタースランプ』と、長期にわたり鳥山原作のアニメが放映されていた。

漫画家としての活動の合間にデザイナーとしても活動し、『ドラゴンクエストシリーズ』、『クロノ・トリガー』、『ブルードラゴン』などのゲームやマスコットキャラクターデザイン、プラモデルや車などのデザインを多数手掛けている。

漫画家デビュー以来、地元で活動を行っており、『Dr.スランプ』単行本(1980年発行)の描きおろしページによると、当時は名古屋空港(小牧空港)から航空便で東京に原稿を送っていた[注 2][26]。初代編集担当者の鳥嶋和彦によれば、鳥山は『Dr.スランプ』連載中も東京で暮らすことを嫌がって地元の愛知で暮らしており、連載中に一度でも原稿が締め切りに間に合わなかった場合は東京で暮らしてもらうという約束で連載をしていたが、結局一度も原稿を遅延させることはなかったという[27]

2024年3月1日、急性硬膜下血腫のため死去[28][29][30]。68歳没。訃報は同8日に『週刊少年ジャンプ』公式サイト、集英社、バード・スタジオおよびカプセルコーポレーション・トーキョーの連名で公表された[31]。  

1980年5・6合併号より『Dr.スランプ』の連載開始。瞬く間に人気作品となり、早々にテレビアニメ化が決定。タイトルに“アラレちゃん”と追加され、1981年4月より『Dr.スランプ アラレちゃん』としてフジテレビ系列の水曜19時台枠で放送開始。一大ブームを巻き起こす。最高視聴率36.9%を記録、歴代アニメ最高視聴率で3位になる[64]など大ヒットアニメとなった。鳥山の地元である東海3県東海テレビでは関東以上に視聴率が高く視聴率40%超を記録している[65]

ジャンプ・コミックス第5巻は、『ドラえもん』(第19巻)の120万部を上回り[66]、第6巻は初版220万部を記録した[66]

連載1年目は、睡眠は3日に1回[67]、最高記録となる6日連続徹夜[39]、ペン入れの記憶がない回がある[68][69]などと多忙を極めた。

『Dr.スランプ』連載中の1982年、松本常男(現キャラメル・ママ会長)により鳥山明公式ファンクラブ「鳥山明保存会」が運営開始される。松本は「最初は『Dr.スランプ・ファン・クラブ』と名付けるはずだったが、トリさ(鳥山明)を見て『保存』するしかない、ということでこの名前になった」と語っている[70]

1982年、260坪の土地を自宅近くに購入し[15]愛知県清須市内に延床面積340平米の「アラレちゃん御殿」を建設、1996年には隣接する土地に延床面積320平米に及ぶ「ドラゴンボール御殿」を建てた[71]

ドラゴンボールの連載[編集]
アイディアの不足を理由に『Dr.スランプ』の連載終了を相談したところ、「3か月後に新連載を始めるのなら終わってもいい」と言われ[39]、次回作のネタを固めるために読み切り漫画『騎竜少年』『トンプー大冒険』を描きつつ、1984年8月に『Dr.スランプ』の連載を終了。

220px-Dragon_Ball_manga_1st_Japanese_edition_logo.svg.pngドラゴンボール』のロゴ同年11月に『ドラゴンボール』の連載を開始する。当初は西遊記コメディ格闘漫画の要素を加えた、孫悟空という少年の冒険譚であった。連載開始当初は期待も大きく反響もあったが、徐々に読者アンケート順位は下降[39]。鳥嶋と分析を重ね、悟空に魅力がないという結論に至った。そこで貪欲に強さを追い求めるキャラを際立たせ、格闘大会天下一武道会という大舞台に向けて修行に励む過程を描く明快なストーリーに軌道修正[62]。すると低迷していたアンケート順位がV字回復し、『ジャンプ』の看板作品に躍り出る。以降、次々と登場する強敵・難敵との戦闘や修行をメインに据えた物語となった。しかし、戦闘シーンが多くなるにつれ、小柄な少年体型の悟空では動き(アクション)に限界があり作画が難しく、連載をやめたいと申し入れたことがある[62]

1986年から1997年まで『Z』『GT』と二度の改題を経て放送されたテレビアニメシリーズは、平均視聴率20%を維持し[72]、世界的に人気を博した[73]

ドラゴンクエスト[編集]
ドラゴンクエストシリーズ』のキャラクター、モンスターデザインを1986年の第1作『ドラゴンクエスト』から担当している。堀井雄二の描いたラフ絵を基にデザインしているものもあるが、スライムに代表されるように自分のアレンジを加えており、キャラクターデザインに至ってはほとんど別物になっている。堀井のラフ絵では目も口もないドロっとしたスライムであり、鳥山により「ドロドロしてデザインしにくかったから」という理由で、液体で雨粒様のデザインになった[74]。また、タイトルロゴの青いドラゴンは鳥山が描きおろしたものである。デザインを手掛けた榎本一夫(バナナグローブスタジオ)の提案で、ロゴに竜を描き加えることになり、鳥嶋を介して依頼を受けた[75]

鳥山は当時「コンピュータRPGをやったことがなかったため初めは苦労したが、『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』以降はどんな感じかわかったのでやりやすかった」と語り、『ドラゴンボール』のストーリー全体にかかわるような影響を受けたという[40]。『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』が発売された段階で、『ドラゴンクエスト』のイラストの中では『ドラゴンクエストII』のパッケージイラストが一番気に入っていると語っている[76]。なお、キャラクターなどが多く面倒なため『ドラゴンクエスト』の漫画を描くのは絶対に嫌だという[77]

2015年7月28日、都内で行われた『ドラゴンクエスト』新作発表会にて、鳥山は「こんにちは、鳥山明です。ドラゴンクエストXI。PS4と3DSの両方で出すそうですね。ちょっと驚きました。ハイクオリティな画面で、大昔に書いたシンプルなモンスターも登場するっていうのは、なんだか違和感もあるのですが、今さら全部書き直すっていうのも大変すぎますので、そこはシュールなモンスターの意志ということで、そこは別の楽しみ方をしていただけますと助かります。」「また、長く続けていると、キャラクターデザインのバリエーションもとっくになくなるわけで……ボツになりながら頑張って書いてみました。なにしろ30年ですからね、堀井さんも集大成っていうか、これで最後という覚悟で気合が入っているみたいなので、僕も根性を見せるしかありません。」とメッセージを寄せている[78]

評価[編集]
『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』などの世界的なヒット作品を生み出し[191]、世界的な知名度を誇っており在フランス日本国大使館が毎年行っている「フランスで最も有名な日本人」の調査で2004年当時、文化庁主催の特別講演で浜野保樹は「(毎年選ばれているのは)ずっと鳥山明」と証言し[192][193]、2018年にテレビ朝日系で放送された「陸海空 地球を征服するなんて」の番組内で行われた「メキシコでもっとも有名な日本人」でも1位に選ばれるなど[194]、「漫画界の巨匠」「世界の漫画界の一里塚」と評されている[195][191]

                           鳥山佐助の仕事は漫画家?wiki経歴やドラゴンボールとの関係も ...   K10014383361_2403081441_0308144506_01_03.jpg

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軌跡

(幼少時代)

愛知県清須市(旧:西春日井郡清洲町[9]に長男として生まれる[6]。生コン会社の敷地内にある一軒家に住んでいた[32]。子供の頃から絵を描くことが好きで、腹を空かせながら漫画を描くのを唯一の楽しみにしていた[33]。欲しい物があるとそれを手に入れるまで、あるいは興味がなくなるまで絵に描き続ける癖があり、その癖は漫画家になって以降も続いている[34]。「当時通っていた絵画教室で描いた『101匹わんちゃん大行進』が表彰されたことで自信を持った」と言い[35]、小学校の写生コンクールで数回入賞し、高校2年時にはには美化キャンペーンのポスターで全国高校生の部に『自然を返せ』で入賞している[6]。妹がいて[4][32]、その子供は則巻ガジラのモデルとなった[36]。よく悪戯をしていて、父親に怒られていた[37]

尊敬していた漫画家は手塚治虫ウォルト・ディズニーで、『鉄腕アトム』に登場するロボットを毎日いたずら描きしていた[38]。一番影響を受けたのはディズニーアニメであり[39]、『101匹わんちゃん大行進』の影響を受けて毎日模写をしていた[40]

(学生時代)

中学は愛知県西春日井郡清洲町(現:清須市)の町立清洲中学校に通う[41]

高校は愛知県一宮市の愛知県立起工業高等学校(現:愛知県立一宮起工科高等学校)に入学[42]。幼少時は漫画やアニメに熱中したが、小学校高学年以降は映画やテレビドラマに興味の対象が移り、漫画に触れる機会が無くなっていたが[43]。しかし、絵を描くことは変わらず好きで自信もあったため、高校では美術部に所属した[42]。「高校時代はマンガ研究同好会に所属し、同好会の会長にもなったが漫画を描くことはなかった」という[44]。鳥山が漫画同好会を設立するに当たり、教諭に同会顧問に就任してほしい旨を頼んだところ、教諭は一旦は「漫画を描いている暇があったら、デッサンでもやっておきなさい」と断ったものの、鳥山は別の教諭に依頼して同好会を発足させ、後に部に昇格した[42][6]。その後高校を卒業し[45][42]、就職している。

(デザイン会社時代~)

高校を卒業した1974年、絵を描く仕事に就きたいと思い、地元の広告関係のデザイン会社「第一紙行名古屋支店」[46]にデザイナーとして就職した。

しかし、平然と遅刻を繰り返し[47][48]レタリング作業が主な仕事になり嫌気が差していたという。最終的に、約2年半[49]ほど経った1977年[50]1月[51]に退職した。本人は「わずかでも世間の仕組みを知ることができて、無駄ではなかった」と述べている[49]

デビューまでの経緯[編集]
デザイン会社を退職後、1年間はアルバイトでイラストを手掛けていたが[6]、その後は遊ぶ金もなく途方に暮れていたある日、喫茶店で偶然手に取った漫画雑誌の『週刊少年マガジン』で、新人賞の作品募集の記事を見つける。入賞すると賞金50万円が手に入ることを知り、23歳の誕生日[1]に初めて漫画を描き始めた[52]。結局、締め切りには間に合わなかったため、1978年1月に『週刊少年ジャンプ』の新人賞である月例ヤングジャンプ賞へ応募作品の『アワワワールド』を投稿する[39][53]。投稿したのはギャグ漫画であるが、その理由はストーリー漫画と賞金が一緒なのにページ数は半分であったため[48][54]