承継
この追悼サイトは、 山田 晁(大阪金属工業を設立した「後のダイキン工業」)さまのために作成されました。

享年88歳 、誕生日 1884年11月12日、命日 1973年2月12日
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山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、日本実業家1924年(大正13年)、後にダイキン工業となる合資会社大阪金属工業所を設立、初代社長を務めた。フロン冷凍機技術とフッ素樹脂などを独自開発した事で知られ、ダイキンの主力となるエアコン開発の礎を築いた

1907年(明治40年)3月卒業し、12月に志願兵として山口歩兵第42連隊に入営、その後少尉に任官後退役し、1909年(明治42年)大阪砲兵工廠に就職した。この頃、陸軍では、作戦上装備の色を黒から褐色に変更したが、飯盒水筒の褐色塗料が人体に有害であると判明し、大阪砲兵工廠には無害な褐色塗料の開発と塗り替えが命じられていた。しかし工廠内での研究は難航していた。この問題を知った松田晁は、専門外の化学分野であったにもかかわらず、府立図書館での文献調査や道修町の薬屋回りの末、褐色塗料の焼き付け塗装法や、さらに漆と練り合わせる混練機を考案し、飯盒の無害な褐色塗装を実現した。その後も業績目覚ましく、33歳で工場長文官任用制度第1号となる薬莢工具工場長となった。その間1912年(大正元年)11月、遠縁の山田圓治の長女安子と結婚し同家を継いで山田姓となった。

1919年(大正8年)8月神戸製鋼所に入社し、翌年1月門司工場へ転勤した。この工場では銅関係の鋳物、板、管棒を生産しており、山田晁は管棒工場に配属された。1921年(大正10年)7月23日には長男山田稔が生まれている。山田晁はここでの約3年間の在職中、横型水圧機によるパイプの押し出し成功などの業績をあげた。

1923年(大正12年)6月、中島飛行機製作所ニューポールからライセンス生産権を獲得したNiD 29の国産化に伴うエンジン冷却用ラジエーターチューブ製作の話が持ち込まれた。この時ほとんどの重役は受注に反対したが、山田晁は強硬に受注を主張し「欠損が出ても会社に迷惑はかけない」と力説したため、「・・ただし責任はすべて山田がとる」との条件付きで受注が決定した。直ちに難波新川3丁目661番地の休業中の魔法瓶工場を借り受け、陸軍造兵廠大阪工廠を退職した永田浅五郎を職長に迎え、専用工作機械の製作から始め、どうにか受注した30万本を納期までに完納できたが、コストが予定の2倍もかかり5000円もの大金を山田晁が負担することになった。

合資会社大阪金属工業所設立[編集]
1924年(大正13年)初め、2回目の注文があったのを機に独立を決意し、同年10月退社、10月25日、「合資会社大阪金属工業所」を設立した。山田晁39歳であった。事業目的は飛行機部品、主として放熱管および同用管の製作販売、一般金属の圧搾および搾伸作業などで、本店は従来通りの難波新川の工場、資本金1万5000円で、山田晁1万円、松田隆亮と永田浅五郎各2000円、島野龍生1000円であった。

主力商品の飛行機用ラジエーターチューブ製造には従来の抽伸法から、砲兵工廠での黄銅薬莢製造法の応用である搾伸法に変更して品質向上を図った。工場3回目の注文は川崎造船所飛行機部からサルムソン式飛行機国産化のためのラジエーターチューブであった。また1925年(大正14年)には松井常三郎の奉天兵工廠からは、不発の多かった瞬発信管の発明家三浦松五郎のアイデア提供のもとでの改良型の大量発注もあった。また、東洋紡績からは、糸を巻く木管に取り付けるリングを搾伸法を用いて製造した使い勝手の良いソリッドタイプにしたい、との相談を受け、これを量産することとなった。

これら3品目が創業初期を支える主力商品であった[1]。このほか、ラジエーターチューブ製造技術を応用した都市ガス瞬間湯沸器も販売したが、販売力が弱くあまり売れなかった。

1928年(昭和3年)5月には、難波工場では手狭となり、大阪市西成区中開町にあった染色工場を買収し、今宮工場として8月に操業を開始した。その頃、陸軍造兵廠大阪工廠の独占だった兵器生産の民間開放があり、1929年(昭和4年)9月には37mm速射砲の薬莢受注に民間企業として初めて成功した。その後、その他の薬莢や信管、弾丸も受注し、工場が手狭になり、1934年(昭和9年)6月、隣接地に第二工場を建設した。

フロン製造開発[編集]
1930年(昭和5年)3月米国GMフリディア事業部のトーマス・ミジェリー・ジュニア博士とアルバート・エル・ヘレネ博士はジクロロジフルオロメタン(R-12)(フロン)には毒性・腐食性・引火性・爆発性がなく冷媒ガスとして優れていることを発表し、同年8月には米国で製造販売が始まった。米国海軍はこれを潜水艦の冷凍冷房装置に採用したとの米国海軍機関紙の情報は、潜水艦乗務経験もある海軍少将で顧問の太田十三男から国産化の進言として山田晁にもたらされた。

当時入社3年目で山田とは親戚筋の岡村一夫が「生涯の仕事として取り組みたいので担当させてほしい」と申し出たことで、1933年(昭和8年)11月より今宮工場でフロンの研究が始められ、並行して冷凍機の開発も行われた。1934年(昭和9年)11月には従来のメチルクロライド式ながら試作1号機が完成し、「ミフジレーター」の商標で市場へ送り出した1936年(昭和11年)7月には、この「ミフジレーター」を南海鉄道2001形電車に搭載し、日本初の冷房電車とした[2]。フロン合成は岡村一夫と岩城徹により1935年(昭和10年)12月に成功し、1937年(昭和12年)11月には岩城に代わって平田雅人を加え量産化の第一歩を踏み出した[3]
また1929年(昭和4年)には、機械の回転部分や摺動部分への注油器として当時世界最先端であったボッシュ社製に匹敵する「ラショナル注油器」の生産を開始し、多くの商船や艦艇に使用された[5][6]

大阪金属工業株式会社設立と住友金属との資本提携[編集]
1934年(昭和9年)2月11日今宮工場所在の大阪市西成区中開町2丁目8番地に「大阪金属工業株式会社」を創立し。代表取締役に山田晁、取締役に加藤剛介、岡村一夫、監査役に松田隆亮が就任し、この日を「創立の日」とした。資本金は25万円であった[7]1934年(昭和9年)7月には資本金を100万円に増資したが、このとき住友伸銅鋼管(後の住友金属工業 現日本製鐵)が49万5000円を出資し住友傘下となり、住友から明田重義を取締役として迎えた[8]

事業拡大とともに今宮工場も手狭となり、1935年(昭和10年)末、堺市の仁徳天皇陵南西の耳原町で堺工場の建設に着手し、冷凍機、信管、薬莢、注油器、ディーゼルエンジン用燃料ポンプ製造部門が順次移転し、1937年(昭和12年)2月、堺工場と命名した[9]。さらに1941年(昭和16年)2月には、神崎川淀川から分流する地点の三島郡味生村(現:摂津市)に淀川工場を航空機専門工場として開設し[10]1942年(昭和17年)8月からはフロン量産もここで行われた[11]

ダイキン工業への社名変更[編集]
1960年(昭和35年)頃になると、フッ素化学製品や塩化ビニール製品の台頭で「大阪金属工業」の社名と製品が一致しなくなり、社名の売れてない東京方面への売り込みに「大阪」の名称も不利に働くと予想されたためと、既に1954年(昭和29年)には「ミフジレーター冷凍機」を「ダイキン冷凍機」に変更済みで、社外でも大阪金属を「ダイキン」と通称されていたため、山田晁社長の決断で1963年(昭和38年)10月1日を以って社名を「ダイキン工業」に変更した[20]1965年(昭和40年)1月30日山田晁は取締役会長に、後任社長には、1952年(昭和27年)の住友金属との再提携時、同社より移籍した土屋義夫が就任した。

山田晁は1972年(昭和47年)1月28日取締役相談役に退き、土屋義夫が取締役会長に、長男の山田稔が3代目取締役社長に就任した。翌1973年(昭和48年)2月12日88歳の天寿を全うした。

公私一如[編集]
「公私一如」という言葉を好んだ。山田にとっての公私は公を先に考え私はあとからついてくるいくという精神で、「公は必ずしも国家に限らず、もっと広く解釈して、各人が所属する社会、団体、例えば地域、階層、会社、協会、組合などの利害を第一におもんばかることを公というと私は思っている、会社員であれば、会社の目的に副うような行動を第一とするのが公の精神といえる」「こうなると、会社は私のものであって実は私のものではない。社長である私を含めて、この会社で働いて暮らしているすべての人達にとって、大阪金属という会社は一つの統合のシンボルである」このシンボルを大事にし、敬愛する精神、これが山田が求め続けた「公私一如」の精神であった[24]

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このメッセージは、 2024年11月12日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
山田晁の「先見の明」と「決断力」無くして後のダイキン工業はあり得ない。
世界的な空調メーカーとなった功績は偉大です。   合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2024年11月12日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
山田晁の「先見の明」と「決断力」無くして後のダイキン工業はあり得ない。
世界的な空調メーカーとなった功績は偉大です。   合掌
軌跡

(生い立ち)

1884年(明治17年)11月12日、山口県厚狭郡船木村(現:宇部市)に、かつて厚狭毛利家の家臣であった松田隆三の二男として出生したが、当時の松田家は裕福ではなかった。

船木尋常高等小学校高等科2年終了後、一時漢方医の書生となったが、小倉で紙箱製造販売をしていた3歳年上の兄松田隆亮の誘いで小倉へ移り、2年間の受験勉強ののち福岡県立小倉工業学校機械科に入学した。当時クラス最年長の18歳で、翌年からは特待生となり授業料は免除された。