この追悼サイトは、 安藤・ 百福(日清食品株式会社・創業者)さまのために作成されました。
享年96歳 、誕生日 1910年3月5日、命日 2007年1月5日
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安藤 百福(あんどう ももふく、1910年(明治43年)3月5日 - 2007年(平成19年)1月5日)は、日本の実業家。日清食品(株)創業者。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者として知られる。
日本統治時代の台湾出身で、出生名は呉 百福(ご ひゃくふく、ゴー・ペクホク)。台湾本島人のため、戦後は中華民国籍になり、1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得(帰化)した。
1948年(昭和23年)に(株)中交総社(後の日清食品)を設立し[2]、日清食品の代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任。(社)日本即席食品工業協会会長、(財)安藤スポーツ・食文化振興財団理事長、(財)漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会会長、(財)いけだ市民文化振興財団会長などを務めた。池田市の名誉市民。位階・勲等は正四位勲二等。
義務教育修了後、祖父の繊維問屋を手伝い、森永郡守の紹介で20歳ごろに町に初めてできた図書館の司書となったが2年で辞し、父の遺産で1932年(昭和7年)に台湾の永楽市場で繊維会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立して日本内地から製品を仕入れて台湾で販売した[4]。当時の繊維業界の動きからメリヤスの需要が大きく伸びるという予測が当たり、事業は大きな成功を収めた[7]。1933年(昭和8年)には大阪市にメリヤス問屋「日東商会」を設立。メリヤスを扱った他、近江絹糸紡績の夏川嘉久次と組んで、トウゴマを栽培して実からひまし油を採取、葉を養蚕用に繊維メーカーに売る事業も手掛けた[8][9]。 この時期の安藤は実業家として活動する傍ら、立命館大学専門部経済学科(二部)に学び、1934年(昭和9年)3月に修了した(同校からは60年後の1996年(平成8年)10月に「戦後のベンチャービジネスの卓越した成果」を称えられ、名誉経営学博士号を授与された[10][11])。
太平洋戦争開戦後は、幻灯機の製造、バラック住宅の製造(兵庫県相生市)などの事業をした[12]。軍用機エンジンの部品製造をする軍需工場の経営にも携わったが、三等市民扱いの台湾出身であるために、無実の罪で45日間拘束されて憲兵から拷問を受けることになった。
安藤は留置場で知り合った人物を通じて知人の元陸軍将校に助けを求め解放されたが、留置生活の影響から深刻な内臓疾患を抱えることになり、後に2度の開腹手術を受けている[15]。空襲が激しくなると終戦まで兵庫県の上郡町に疎開し炭焼きなどをするが、大阪で事業を手掛けていた頃在住していた千里山では、三軒隣に藤田田の一家が住んでおり、交流を持つこととなった[16]。
食品事業の開始[編集]1946年(昭和21年)冬、疎開先から大阪へ戻り、泉大津市に住んだ。終戦直後は土地が安く手放されていたため、久原房之助の助言により、大阪の中心街の心斎橋ほか御堂筋や大阪駅前など相当の土地を手に入れた[4]。戦後の食糧難の中で「衣食住というが、食がなければ衣も住もあったものではない」という思いを抱くようになり、食品事業を手掛けることを決意した[17]。百福によるとこの時抱いた想いが原点となって、後に日清食品の企業理念「食足世平(食足りて世は平らか)」が誕生した[18]。自宅近くにあった軍需工場跡地の払い下げも受け、跡地に置かれていた鉄板を用いた製塩業や漁業を営んだ[19][20]。
1948年(昭和23年)、「中交総社」(後の日清食品)を設立[21]。専門家を集めて国民栄養化学研究所を設立し、牛や豚の骨からたんぱく質エキスを抽出することに成功、パンに塗るペースト状の栄養商品「ビセイクル」として病院にも供給された[22][23]。 栄養食品の開発に取り組んでいた頃、仕事の関係で厚生省に出入りしていたが、当時厚生省は米国の余剰小麦を使って日本人に粉食を奨励しており、同省栄養課長の有本邦太郎(のち国立栄養研究所長)に麺食を進言し、その研究を勧められる[24]。
インスタントラーメンの開発[編集]大阪府池田市の自宅敷地内に小屋を作り、かねてから構想を抱いていたインスタントラーメン(即席めん)作りに取り組んだ。安藤はインスタントラーメンを、
チキンラーメンの開発[編集]インスタントラーメンの開発は1958年(昭和33年)の春にはほぼ完了した[54]。貿易会社を通じて試作品をアメリカ合衆国に送ったところ注文が入り、日本で発売する前に日本国外への輸出が行われた[55]。同年夏には「チキンラーメン」という商品名で日本での発売を開始。安藤によると、チキンラーメンの需要は「ある日突然に爆発した」[56]。価格をうどん玉6円、乾麺25円に対し35円に設定したことや、安藤が当時の慣例とは異なる(2-3か月の手形決済が普通だった)現金決済を要求したことから問屋の反応は芳しくなかったが、ある時小売店から問屋への注文が殺到するようになり、問屋から「現金前払いでもいいから」と注文が入るようになったという[57]。三菱商事、東京食品、伊藤忠商事の3社と販売委託契約を結び流通網を整え、同時に大量生産を可能にするべく大阪府高槻市に2万4000平方メートルの敷地を購入して工場を建設した。
栄典
著作[編集]著書[編集]
安藤百福発明記念館 大阪府池田市満寿美町8-25 072-752-3484
※注:このサイトは、安藤百福に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年96歳 、誕生日 1910年3月5日、命日 2007年1月5日
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安藤 百福(あんどう ももふく、1910年(明治43年)3月5日 - 2007年(平成19年)1月5日)は、日本の実業家。日清食品(株)創業者。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者として知られる。
日本統治時代の台湾出身で、出生名は呉 百福(ご ひゃくふく、ゴー・ペクホク)。台湾本島人のため、戦後は中華民国籍になり、1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得(帰化)した。
1948年(昭和23年)に(株)中交総社(後の日清食品)を設立し[2]、日清食品の代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任。(社)日本即席食品工業協会会長、(財)安藤スポーツ・食文化振興財団理事長、(財)漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会会長、(財)いけだ市民文化振興財団会長などを務めた。池田市の名誉市民。位階・勲等は正四位勲二等。
義務教育修了後、祖父の繊維問屋を手伝い、森永郡守の紹介で20歳ごろに町に初めてできた図書館の司書となったが2年で辞し、父の遺産で1932年(昭和7年)に台湾の永楽市場で繊維会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立して日本内地から製品を仕入れて台湾で販売した[4]。当時の繊維業界の動きからメリヤスの需要が大きく伸びるという予測が当たり、事業は大きな成功を収めた[7]。1933年(昭和8年)には大阪市にメリヤス問屋「日東商会」を設立。メリヤスを扱った他、近江絹糸紡績の夏川嘉久次と組んで、トウゴマを栽培して実からひまし油を採取、葉を養蚕用に繊維メーカーに売る事業も手掛けた[8][9]。 この時期の安藤は実業家として活動する傍ら、立命館大学専門部経済学科(二部)に学び、1934年(昭和9年)3月に修了した(同校からは60年後の1996年(平成8年)10月に「戦後のベンチャービジネスの卓越した成果」を称えられ、名誉経営学博士号を授与された[10][11])。
太平洋戦争開戦後は、幻灯機の製造、バラック住宅の製造(兵庫県相生市)などの事業をした[12]。軍用機エンジンの部品製造をする軍需工場の経営にも携わったが、三等市民扱いの台湾出身であるために、無実の罪で45日間拘束されて憲兵から拷問を受けることになった。
安藤は留置場で知り合った人物を通じて知人の元陸軍将校に助けを求め解放されたが、留置生活の影響から深刻な内臓疾患を抱えることになり、後に2度の開腹手術を受けている[15]。空襲が激しくなると終戦まで兵庫県の上郡町に疎開し炭焼きなどをするが、大阪で事業を手掛けていた頃在住していた千里山では、三軒隣に藤田田の一家が住んでおり、交流を持つこととなった[16]。
食品事業の開始[編集]1946年(昭和21年)冬、疎開先から大阪へ戻り、泉大津市に住んだ。終戦直後は土地が安く手放されていたため、久原房之助の助言により、大阪の中心街の心斎橋ほか御堂筋や大阪駅前など相当の土地を手に入れた[4]。戦後の食糧難の中で「衣食住というが、食がなければ衣も住もあったものではない」という思いを抱くようになり、食品事業を手掛けることを決意した[17]。百福によるとこの時抱いた想いが原点となって、後に日清食品の企業理念「食足世平(食足りて世は平らか)」が誕生した[18]。自宅近くにあった軍需工場跡地の払い下げも受け、跡地に置かれていた鉄板を用いた製塩業や漁業を営んだ[19][20]。
1948年(昭和23年)、「中交総社」(後の日清食品)を設立[21]。専門家を集めて国民栄養化学研究所を設立し、牛や豚の骨からたんぱく質エキスを抽出することに成功、パンに塗るペースト状の栄養商品「ビセイクル」として病院にも供給された[22][23]。 栄養食品の開発に取り組んでいた頃、仕事の関係で厚生省に出入りしていたが、当時厚生省は米国の余剰小麦を使って日本人に粉食を奨励しており、同省栄養課長の有本邦太郎(のち国立栄養研究所長)に麺食を進言し、その研究を勧められる[24]。
インスタントラーメンの開発[編集]大阪府池田市の自宅敷地内に小屋を作り、かねてから構想を抱いていたインスタントラーメン(即席めん)作りに取り組んだ。安藤はインスタントラーメンを、
- おいしくて飽きがこない。
- 保存性がある。
- 調理に手間がかからない。
- 安価である。
- 安全で衛生的。
チキンラーメンの開発[編集]インスタントラーメンの開発は1958年(昭和33年)の春にはほぼ完了した[54]。貿易会社を通じて試作品をアメリカ合衆国に送ったところ注文が入り、日本で発売する前に日本国外への輸出が行われた[55]。同年夏には「チキンラーメン」という商品名で日本での発売を開始。安藤によると、チキンラーメンの需要は「ある日突然に爆発した」[56]。価格をうどん玉6円、乾麺25円に対し35円に設定したことや、安藤が当時の慣例とは異なる(2-3か月の手形決済が普通だった)現金決済を要求したことから問屋の反応は芳しくなかったが、ある時小売店から問屋への注文が殺到するようになり、問屋から「現金前払いでもいいから」と注文が入るようになったという[57]。三菱商事、東京食品、伊藤忠商事の3社と販売委託契約を結び流通網を整え、同時に大量生産を可能にするべく大阪府高槻市に2万4000平方メートルの敷地を購入して工場を建設した。
栄典
著作[編集]著書[編集]
単著[編集]
- 『奇想天外の発想』講談社、1983年7月4日。ISBN 9784062006514。NDLJP:12102418。
- 『食足世平 日本の味探訪』講談社、1985年3月5日。ISBN 9784062015806。NDLJP:12101649。
- 『続 食足世平 日本の味探訪』講談社、1987年7月22日。ISBN 9784062034715。NDLJP:12100189。
- 『安藤百福語録』日清食品、1987年3月。
- 『苦境からの脱出 激変の時代を生きる』フーディアム・コミュニケーション、1992年5月。ISBN 9784938642051。
- 『食は時代とともに 安藤百福フィールドノート』旭屋出版、1999年3月。ISBN 9784751101575。
- 『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』日本経済新聞社、2002年3月。ISBN 9784532164102。
- 『安藤百福氏 日清食品代表取締役会長』加護野忠男インタビュアー、「関西企業家ライブラリーの構築」研究グループ・大阪商工会議所大阪企業家ミュージアム〈関西企業家映像ライブラリー 10〉、2002年3月。
- 『100歳を元気に生きる 安藤百福の賢食紀行』中央公論新社、2005年5月。ISBN 9784120036378。
- 『食欲礼賛』PHP研究所、2006年6月。ISBN 9784569654416。
- 『インスタントラーメン発明王安藤百福かく語りき』中央公論新社、2007年2月。ISBN 9784120038136。
- 『安藤百福かく語りき 日清食品株式会社創業者』日清食品広報部、2007年8月。
- 『魔法のラーメン発明物語』日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫 456〉、2008年8月。ISBN 9784532194567。
- 安藤百福発明記念館 編『転んでもただでは起きるな! 定本・安藤百福』中央公論新社、2013年3月。ISBN 9784120044694。
- 安藤百福発明記念館 編『転んでもただでは起きるな! 定本・安藤百福』中央公論新社〈中公文庫 あ76-1〉、2013年11月。ISBN 9784122058699。
安藤百福発明記念館 大阪府池田市満寿美町8-25 072-752-3484
※注:このサイトは、安藤百福に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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