(生い立ち)
熊本県出身の政治学者で、朝日新聞論説委員、参議院議員などを務めた佐々弘雄の次男として、東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。戦国武将・佐々成政の末裔の家系でもある。6歳のとき自宅近くで二・二六事件が発生。その戒厳下の体験が危機管理人生の出発点となったという。
またゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実と父の弘雄は朝日新聞の同僚記者として親交があり、ともに近衛文麿のブレーンとして昭和研究会、朝食会に参加していた[2]。尾崎は自宅に来ることも多く[3]、ゾルゲ事件が発覚すると、父の書斎にあった手紙、書類、名刺などを兄とともに焼却した[4]。父の弘雄は終戦まで特別高等警察と憲兵隊の捜査対象になったが、逮捕はされなかった[5]。
またゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実と父の弘雄は朝日新聞の同僚記者として親交があり、ともに近衛文麿のブレーンとして昭和研究会、朝食会に参加していた[2]。尾崎は自宅に来ることも多く[3]、ゾルゲ事件が発覚すると、父の書斎にあった手紙、書類、名刺などを兄とともに焼却した[4]。父の弘雄は終戦まで特別高等警察と憲兵隊の捜査対象になったが、逮捕はされなかった[5]。
(学生時代)
旧制成蹊高等学校を経て[6]、1954年(昭和29年)3月に東京大学法学部第3類(政治コース)を卒業。東京大学在学中は、学生研究会土曜会の中心メンバーとして活動し、若泉敬、粕谷一希らと交流を持った。
東京大学法学部教授の堀豊彦から学士助手として大学に残るよう勧められたが、朝鮮戦争や過激化する左翼運動といった世相の中、警察三級職試験(現・国家公務員採用総合職試験)を受験して国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁した[7]。警察三級職試験の合格席次は2番であった[8]。若泉は保安研修所(現・防衛研究所)入りし学究の道に入った。粕谷は佐々が学者、若泉が実務家の適性を持っていると思っていたため、それぞれの選択を意外に思ったという[9]。
東京大学法学部教授の堀豊彦から学士助手として大学に残るよう勧められたが、朝鮮戦争や過激化する左翼運動といった世相の中、警察三級職試験(現・国家公務員採用総合職試験)を受験して国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁した[7]。警察三級職試験の合格席次は2番であった[8]。若泉は保安研修所(現・防衛研究所)入りし学究の道に入った。粕谷は佐々が学者、若泉が実務家の適性を持っていると思っていたため、それぞれの選択を意外に思ったという[9]。