承継
坂東妻三郎さんの追悼サイトです。

本名:田村 傳吉(たむら でんきち)
戒名:大雲院雷蔵法眼日浄居士
墓地二尊院(マップ)〒616-8425 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27


<関連リンク>
阪東妻三郎についてさらに詳しく知りたい場合は以下にリンクをご確認ください:

  1. Wikipedia - 阪東妻三郎
    詳細なプロフィールや生涯について学べます。
  2. 昭和ガイド - 阪東妻三郎の写真、名言、年表、子孫を徹底紹介 
    阪東妻三郎の年表や写真、名言などを通じて彼の人物像をより深く理解できます。
  3. 国立国会図書館デジタルコレクション - 阪東妻三郎(写真)
    阪東妻三郎の貴重な写真等が掲載されています。
  4. YouTube - 阪東妻三郎 映画作品集
    彼の演じた映画の一部を視聴することができます。


※俳優(故)田村正和さんの父、5人の子どものうち、長男の田村高廣、三男の田村正和、四男の田村亮の3人は俳優となった。
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歌舞伎俳優、映画俳優。サイレント映画時代に岡山 俊太郎(おかやま しゅんたろう)の名で監督作がある。端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。

大正末年から昭和初年にかけての剣戟ブームを生み出した剣戟俳優であり、「剣戟王(けんげきおう)」の異名を持つ。日本映画史においてサイレント映画からトーキーへの転換期に活躍、双方で高い実績を残した人物としてしばしば名を挙げられる。


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軌跡

生い立ち

東京都千代田区東神田生まれで旧制・尋常小学校高等科を卒業した後、、母や姉が常磐津や長唄の芸に秀でていたことから自立を模索する。その帰り道、落ち込んで近くの十一代目片岡仁左衛門の屋敷に飛び込んだところ、番頭の伊藤に迎えられ、仁左衛門の内弟子となることを許された。雑用の合間に、黒衣を着て舞台を見たり、狂言のメモを取ったりする日々を送った。初舞台は大阪中座で、師匠に付いて「神子(かみこ)立ち入り禁止」の前説を準備したが、台詞はなかったという。

俳優一家

5人の子供のうち、長男・田村高廣、三男・田村正和、四男・田村亮の3人は俳優になった。次男の田村俊馬は実業家で、隆博や正和のマネージャーを務めた。庶子には俳優の水上泰裕がいる。田村浩二は孫にあたる。

阪妻プロダクション

阪妻は25歳で京都に阪妻プロダクションを設立した。今東光を顧問に、マキノ時代からの旧友をマキノから借り受け、映画製作を開始した。京都で2本撮影した後、奈良に戻った阪妻は、さらに2本撮影し、「雄呂血」を完成させた。この作品は、歌舞伎の立ち回りを破壊した破天荒な殺陣と、不当な権力に反発する虚無的な主人公が時代の雰囲気にマッチして大ヒットを記録した。その大胆な殺陣は「喧嘩劇場のバンツマ」と呼ばれ、一躍有名になった。阪妻プロの太秦撮影所落成。アメリカのユニバーサル社と配給提携。以後、時代劇のみならず現代劇も制作。
報告

豪快な金遣い

墓マイラー趣味クラブさんが2023年2月25日に投稿
その遊びぶりも豪快なものだった。「時代劇の王者は何とゆうても阪東妻三郎、女遊びもこの人にはとても及びまへん、散財のケタがちがう」。。。阪妻プロの映画は、松竹の買い取り価格が一尺あたり二円四十銭だった。「捕り方パッと走っても二、三百円稼ぐんだ、その銭をつかんで撒く、勝負になりまへん、祇園の芸者総揚げにした。伝説やおまへん、この目で見ました」、「花見小路から八坂さんまでずら〜っと、芸者末社ひきつれて大名行列を繰り広げた」
しかし、内面は女道楽よりも男の意地でゼニ撒いたんやないかとも言われる。「お上が大嫌い」で、昭和天皇の御大典に合わせて、東京から京都へ「偉い人たち」が大挙押し寄せ、祇園や先斗町で権柄づくのを示し合わせて祇園街を買い占めてみせた。尺二円四十銭、今の金に直して何千万円、いや億に、ためたらバチが当たりますわ」と言っていた。