歌舞伎・映画界での活躍
1919年、坂爪は国際活動映画に入社し、カメラマンとして働くことになる。伝統や伝統を重んじる演劇の世界とは異なる、アクション写真の分野に新しい世界を見出したのである。沢村四郎五郎や実川丸十郎に頼み、昼間はアクション写真の仕事をし、夜は芝居をする。1920年、6月に松竹キネマ蒲田撮影所が設立されると、實川松十郎とともに松竹キネマに入社。しかし、その後まもなく森要が退社すると、坂爪は国活に戻り、1923年7月に「島のつか」(江田正洋監督)に給仕役で出演するまで無名のままであった。玉置歌子は当時、彼についてこう語っている。「多くのエキストラの中で非常に目立っていたので、すぐにわかりました。細くて背が高く、首が一段と出ていて、色は白を通り越して青に近い」と語っている。海外から帰国した1922年には、歌舞伎の「本朝二十四部作」に出演している