この追悼サイトは、 黒田 チカ(化学者・理学博士「天然色素に関する研究」さまのために作成されました。
享年84歳 、誕生日 1884年3月24日、命日 1968年11月8日
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黒田 チカ(くろだ チカ、1884年〈明治17年〉3月24日 - 1968年〈昭和43年〉11月8日)は、日本の化学者[3]。理学博士(1929年)(保井コノに続く女性理学博士第2号)。お茶の水女子大学名誉教授。1959年紫綬褒章、1965年勲三等宝冠章受章。位階は従三位。
佐賀県佐賀郡松原町(現・佐賀市松原)生まれ[4]。植物色素の構造決定を行ったことで知られる。天然色素に関する黒田の研究は、2013年3月に日本化学会がその関連資料を化学遺産に認定[5][注釈 1]。 日本初の女子帝国大学生の1人としても知られる[2]。
父平八、母トクの7人兄弟姉妹の三女として1884年(明治17年)に佐賀県に生まれる[6]。
「これからは女子にも教育が必要」と考え子どもは大学へ上げようとした両親の方針もあり[7]、黒田チカは1901年(明治34年)に佐賀県師範学校(現・佐賀大学文化教育学部)女子部を卒業、小学校教員として1年の義務奉職を経ると1902年(明治35年・18歳)、上京して女子高等師範学校[注釈 2]理科へ進む。
黒田は1906年(明治39年)に卒業すると福井県師範学校女子部に職を得る。
翌1907年(明治40年)、母校の研究科に入学、2年で修了すると (1909年(明治42年・25歳)、東京女子高等師範学校に改称した母校で助教授に任ぜられる。
1913年(大正2年・29歳)、東北帝国大学(現・東北大学)理科大学化学科に進み、日本初の帝国大学女子学生の一人となる。官報で合格発表が行われた8月21日は後に女子大生の日となった[8][9]。同期に牧田らく[注釈 3]、丹下ウメ (40歳)がいた。
1916年(大正5年)、同学科を卒業し日本女性初の理学士となると副手の職を得る。
2年後の1918年(大正7年・34歳[10])、天然色素の研究『紫根の色素について』[注釈 4]を東京化学会(現・日本化学会)で発表する(女性理学士の発表は初)。
研究生活[編集]黒田は文部省外国留学生として1921年(大正10年・37歳)英国[10]オックスフォード大学へ国費で渡り、2年間の在外研究を経験している。
1923年(大正12年)8月、アメリカ経由で帰国、11月に上京してお茶の水女子大学で講義をするとともに、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始める。5年を費やした研究[14]により1929年(昭和4年)博士号を受けた黒田は45歳、保井コノ[注釈 5]に続く女性理学博士第2号の誕生である。学位論文は『紅花の色素カーサミンの構造決定』[注釈 4][15][16]。
タマネギの中のケルセチンが血圧降下作用があることをかねてから発見しており、1953年(昭和28年)12月に特許[注釈 6]を得てケルチンCとして市販される。
1958年4月26日、黒田を会長として日本婦人科学者の会が発足する[18]。1968年(昭和43年)11月8日、福岡で逝去、84歳没。従三位叙位。
学位・褒章[編集]
黒田チカ資料 「紅花の色素カーサミン」の標本
※注:このサイトは、黒田チカに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年84歳 、誕生日 1884年3月24日、命日 1968年11月8日
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黒田 チカ(くろだ チカ、1884年〈明治17年〉3月24日 - 1968年〈昭和43年〉11月8日)は、日本の化学者[3]。理学博士(1929年)(保井コノに続く女性理学博士第2号)。お茶の水女子大学名誉教授。1959年紫綬褒章、1965年勲三等宝冠章受章。位階は従三位。
佐賀県佐賀郡松原町(現・佐賀市松原)生まれ[4]。植物色素の構造決定を行ったことで知られる。天然色素に関する黒田の研究は、2013年3月に日本化学会がその関連資料を化学遺産に認定[5][注釈 1]。 日本初の女子帝国大学生の1人としても知られる[2]。
父平八、母トクの7人兄弟姉妹の三女として1884年(明治17年)に佐賀県に生まれる[6]。
「これからは女子にも教育が必要」と考え子どもは大学へ上げようとした両親の方針もあり[7]、黒田チカは1901年(明治34年)に佐賀県師範学校(現・佐賀大学文化教育学部)女子部を卒業、小学校教員として1年の義務奉職を経ると1902年(明治35年・18歳)、上京して女子高等師範学校[注釈 2]理科へ進む。
黒田は1906年(明治39年)に卒業すると福井県師範学校女子部に職を得る。
翌1907年(明治40年)、母校の研究科に入学、2年で修了すると (1909年(明治42年・25歳)、東京女子高等師範学校に改称した母校で助教授に任ぜられる。
1913年(大正2年・29歳)、東北帝国大学(現・東北大学)理科大学化学科に進み、日本初の帝国大学女子学生の一人となる。官報で合格発表が行われた8月21日は後に女子大生の日となった[8][9]。同期に牧田らく[注釈 3]、丹下ウメ (40歳)がいた。
1916年(大正5年)、同学科を卒業し日本女性初の理学士となると副手の職を得る。
2年後の1918年(大正7年・34歳[10])、天然色素の研究『紫根の色素について』[注釈 4]を東京化学会(現・日本化学会)で発表する(女性理学士の発表は初)。
研究生活[編集]黒田は文部省外国留学生として1921年(大正10年・37歳)英国[10]オックスフォード大学へ国費で渡り、2年間の在外研究を経験している。
1923年(大正12年)8月、アメリカ経由で帰国、11月に上京してお茶の水女子大学で講義をするとともに、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始める。5年を費やした研究[14]により1929年(昭和4年)博士号を受けた黒田は45歳、保井コノ[注釈 5]に続く女性理学博士第2号の誕生である。学位論文は『紅花の色素カーサミンの構造決定』[注釈 4][15][16]。
タマネギの中のケルセチンが血圧降下作用があることをかねてから発見しており、1953年(昭和28年)12月に特許[注釈 6]を得てケルチンCとして市販される。
1958年4月26日、黒田を会長として日本婦人科学者の会が発足する[18]。1968年(昭和43年)11月8日、福岡で逝去、84歳没。従三位叙位。
学位・褒章[編集]
- 1929年(昭和4年) - 理学博士
- 1936年(昭和11年) - 第1回真島賞 (日本化学会) 受賞。
- 1959年(昭和34年) - 紫綬褒章受章[注釈 8]
- 1965年(昭和40年) - 勲三等宝冠章受章。
黒田チカ資料 「紅花の色素カーサミン」の標本
※注:このサイトは、黒田チカに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝