この追悼サイトは、私たちの愛する人 島倉 千代子(歌手)さんを記念して作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:島倉 千代子(しまくら ちよこ)愛称は「お千代さん」。
関連リンク
WIKI:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%80%89%E...
日本コロンビア:https://columbia.jp/artist-info/chiyoko/
享年75歳 、誕生日 1938年3月30日、命日 2013年11月8日 日本の演歌・歌謡曲歌手。東京府東京市(現在の東京都)品川区北品川出身[2]、日本音楽高等学校卒業。生涯[編集]デビュー以前[編集]1938年3月30日(水曜日)、品川区北品川に警察官の父・島倉壽雄(としお)、母・ナカの二男四女の四女として生まれる。島倉家は越前一乗谷城主朝倉義景の末裔という。
1945年(7歳)、長野県松本市へ疎開。両親の実家がある群馬県桐生市にも半年間、疎開していた事がある。井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。母・ナカが「女の子だから(腕を)残して欲しい」と医師に懇願し、切断は免れたが47針を縫い[3]、感覚も無く、動かすこともできなくなる
1953年(15歳)、品川区の日本音楽高等学校へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。
1955年3月[5](16歳)、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲『この世の花』(同名の映画の主題歌)は半年後に200万枚達成、人気歌手になる(後にテレビドラマでカバーされ、1977年に同名の映画の2作目で再度カバーされる)。1955年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。
1957年(19歳)、『東京だョおっ母さん』が150万枚のヒット。映画化もされ、自ら主演する。この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は『逢いたいなァあの人に』。その後、1976年、1979年にも歌唱)。当時大卒サラリーマンの給料が1万円であったが、千代子は常に財布に2千円入っていた。この年の3月、島倉を殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕される[3]。
1958年(20歳)、港区高輪(北品川の隣町)に一戸建てを購入。同年には『からたち日記』が130万枚のヒットとなった。
1960年(22歳)、美空ひばりとともに『つばなの小径・白い小ゆびの歌』を発表。同年、ひばりを抑えて初めて紅白の紅組トリを務める(1960年から1962年、1973年から1975年の計6回に渡り紅組トリを務める。1975年は唯一の大トリ)。
1968年(30歳)、「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である『愛のさざなみ』が幅広い世代の間でヒット。この曲で第10回日本レコード大賞・特別賞を春日八郎と共に受賞。すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。
1975年(37歳)、以前かかった眼科医に頼まれ実印を貸してしまう[6]。その知人だけではなく、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受けたという(ひばり自身も実印を押してしまった経験を持つため)。
1977年(39歳)、今度は島倉に信頼され、島倉に手形の裏書をさせていた守屋義人が事業に失敗して、不渡り手形を出し蒸発。島倉は借金の連帯保証人にされ、これにより更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。20億近くもの莫大な借金返済のため、写真集の発売や全国各地のキャバレー回りや地方興行などをしながら、足掛け7年程で完済した。このような活動をしている最中でも島倉の人気は全く衰えを知らず、NHK紅白歌合戦の連続出場記録は続く。
1980年代[編集]1984年(46歳)、歌手生活30周年を迎える。
1986年(48歳)、第37回NHK紅白歌合戦で紅白歌合戦への30年連続30回出場を達成。当時の紅白史上最多記録だった。
1987年(49歳)、『人生いろいろ』を発表。「30回という区切りを大切にしたい」と“紅白辞退”の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップ
島倉千代子 人気曲ランキング
・人生いろいろ ・逢いたいなァ あの人に
・この世の花 ・りんどう峠
・東京だョ おっ母さん ・すみだ川
・鳳仙花 ・思い出さん今日は
・愛のさざなみ ・涙の谷間に太陽を
・からたち日記 ・襟裳岬
・夢飾り ・矢切の渡し(デュエット:船村徹)
・恋しているんだもん ・哀愁のからまつ林
・からたちの小径
・ほんきかしら etc.
音楽作品
多くの楽曲を発表しており(およそ2000曲)、委託制作版や当時のアルバムにしか入っ
ていない曲もあるため、持ち歌の数を正確に数えるのは困難である。
映画
島倉千代子のお墓 東海寺大山墓地 東京都品川区北品川4-11-8
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本名:島倉 千代子(しまくら ちよこ)愛称は「お千代さん」。
戒名:寶婕院千代歌愛大姉(ほうしょういんせんだいかわいだいし
墓地:東海寺大山墓地(マップ)〒140-0001 東京都品川区北品川4丁目11−1
※大山墓地の一番奥にある、ピアノをかたどったと言われるお墓です。(生前墓)詳細は一番下にあります。
墓地:東海寺大山墓地(マップ)〒140-0001 東京都品川区北品川4丁目11−1
※大山墓地の一番奥にある、ピアノをかたどったと言われるお墓です。(生前墓)詳細は一番下にあります。
関連リンク
WIKI:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%80%89%E...
日本コロンビア:https://columbia.jp/artist-info/chiyoko/
享年75歳 、誕生日 1938年3月30日、命日 2013年11月8日 日本の演歌・歌謡曲歌手。東京府東京市(現在の東京都)品川区北品川出身[2]、日本音楽高等学校卒業。生涯[編集]デビュー以前[編集]1938年3月30日(水曜日)、品川区北品川に警察官の父・島倉壽雄(としお)、母・ナカの二男四女の四女として生まれる。島倉家は越前一乗谷城主朝倉義景の末裔という。
1945年(7歳)、長野県松本市へ疎開。両親の実家がある群馬県桐生市にも半年間、疎開していた事がある。井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。母・ナカが「女の子だから(腕を)残して欲しい」と医師に懇願し、切断は免れたが47針を縫い[3]、感覚も無く、動かすこともできなくなる
1953年(15歳)、品川区の日本音楽高等学校へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。
1955年3月[5](16歳)、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲『この世の花』(同名の映画の主題歌)は半年後に200万枚達成、人気歌手になる(後にテレビドラマでカバーされ、1977年に同名の映画の2作目で再度カバーされる)。1955年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。
1957年(19歳)、『東京だョおっ母さん』が150万枚のヒット。映画化もされ、自ら主演する。この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は『逢いたいなァあの人に』。その後、1976年、1979年にも歌唱)。当時大卒サラリーマンの給料が1万円であったが、千代子は常に財布に2千円入っていた。この年の3月、島倉を殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕される[3]。
1958年(20歳)、港区高輪(北品川の隣町)に一戸建てを購入。同年には『からたち日記』が130万枚のヒットとなった。
1960年(22歳)、美空ひばりとともに『つばなの小径・白い小ゆびの歌』を発表。同年、ひばりを抑えて初めて紅白の紅組トリを務める(1960年から1962年、1973年から1975年の計6回に渡り紅組トリを務める。1975年は唯一の大トリ)。
1968年(30歳)、「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である『愛のさざなみ』が幅広い世代の間でヒット。この曲で第10回日本レコード大賞・特別賞を春日八郎と共に受賞。すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。
1975年(37歳)、以前かかった眼科医に頼まれ実印を貸してしまう[6]。その知人だけではなく、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受けたという(ひばり自身も実印を押してしまった経験を持つため)。
1977年(39歳)、今度は島倉に信頼され、島倉に手形の裏書をさせていた守屋義人が事業に失敗して、不渡り手形を出し蒸発。島倉は借金の連帯保証人にされ、これにより更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。20億近くもの莫大な借金返済のため、写真集の発売や全国各地のキャバレー回りや地方興行などをしながら、足掛け7年程で完済した。このような活動をしている最中でも島倉の人気は全く衰えを知らず、NHK紅白歌合戦の連続出場記録は続く。
1980年代[編集]1984年(46歳)、歌手生活30周年を迎える。
1986年(48歳)、第37回NHK紅白歌合戦で紅白歌合戦への30年連続30回出場を達成。当時の紅白史上最多記録だった。
1987年(49歳)、『人生いろいろ』を発表。「30回という区切りを大切にしたい」と“紅白辞退”の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップ
島倉千代子 人気曲ランキング
・人生いろいろ ・逢いたいなァ あの人に
・この世の花 ・りんどう峠
・東京だョ おっ母さん ・すみだ川
・鳳仙花 ・思い出さん今日は
・愛のさざなみ ・涙の谷間に太陽を
・からたち日記 ・襟裳岬
・夢飾り ・矢切の渡し(デュエット:船村徹)
・恋しているんだもん ・哀愁のからまつ林
・からたちの小径
・ほんきかしら etc.
音楽作品
多くの楽曲を発表しており(およそ2000曲)、委託制作版や当時のアルバムにしか入っ
ていない曲もあるため、持ち歌の数を正確に数えるのは困難である。
映画
- 東京の人さようなら(1956年、東宝)
- 新妻鏡 (1956年、新東宝) - 本人 役
- 大学の石松 女群突破 (1957年、東映) - 島村岐代子 役
- あんみつ姫の武者修業(1960年、松竹) - 千鳥太夫 役
- 太陽に突っ走れ (1966年、東映) - 本人 役
- サード (1978年、ATG) - サードのおふくろ 役(特別出演) etc.
島倉千代子のお墓 東海寺大山墓地 東京都品川区北品川4-11-8
この大山墓地には、禅宗の名僧、沢庵和尚、江戸中期の国学者の賀茂真淵、鉄道の父と呼ばれる井上勝、江戸の天文学者 渋川春海の墓をはじめ江戸~昭和にかけて活躍した偉人たちが眠っている。最近では、北品川出身の歌手、島倉千代子さんのお墓もここにあり、いつも花が供えられている。
※注:このサイトは、島倉千代子に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝