この想いでサイトは、私たちの尊敬する人 新田 長次郎(ニッタ株式会社・創業者)さんを記念して作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:新田 長次郎(にった ちょうじろう)
戒名:金剛心院温山徳壽居士
墓地:日本佛法最初四天王寺碑、日本
明治時代から昭和前期の日本の商人(皮革商)[1]、実業家、資産家。新田帯革製造所(現ニッタ)の創業者[2]。新田帯革製造所、新田ベニヤ製造所各代表社員[3]。号は温山。愛媛県出身で、族籍は大阪府平民[1][3]。日本国内一流の製革業者として知られた[4]。
経歴[編集]1857年(安政4年)、伊予国温泉郡山西村(のちの味生村大字山西、現在の愛媛県松山市山西町)の農家に生まれる。新田喜惣次の次男[5][6]。母をウタ[2](あるいは歌子[7])という。家は、幕末には1町歩ほどの田畑を有し、下男(作男)を雇い、牛を飼う本百姓であった[6]。
5歳の頃、父と死別し、9歳の時から12歳の時まで寺子屋に学び、その後は母を助けて代々営む農業に勤しんだ[8]。15歳のころ、何人かの人たちの好意によって教えてもらいながら算盤と和算法を身につけた[9]。
1877年(明治10年)、20歳の時に大阪に出て、米屋に丁稚奉公した[10]。米屋を辞めて藤田組製革所に入り、西欧式製革技術を習得した[10]。製革という仕事は、当時非常な賤業として普通の百姓さえも忌み嫌って手を染めぬものであった[11]。皮革を扱う産業は江戸時代には多くの地域で被差別部落特有の産業とされていた[9]。それにも拘わらず長次郎は自ら之を選び進んで従事して一生懸命に習練研鑚した[11]。
1885年(明治18年)に新田組として独立し、大阪府西成郡難波村久保吉(現在の大阪市浪速区久保吉2丁目)に空家を借り、製革工場を起こした。当初は、製靴用の薄物油革を製造していたが、知人の出資を得て工場を拡張し、1888年(明治21年)には大阪紡績(現在の東洋紡)の依頼で動力伝動用革ベルトの国産化に日本で初めて成功、新田製地球印帯革として、その後、全国で設立された紡績会社に販路を広げていく。1897年(明治30年)には、長次郎の単独経営となる。1901年(明治34年)に、東京出張店を開設し、その後各地に出張店を設置した。1902年(明治35年)には、実業功績者として、緑綬褒章を授与された。1904年(明治37年)には、革ベルト接合法で最初の特許を取得し、これにより、耐久性に優れた製品化が可能となった。
1909年(明治42年)には、個人企業から合資会社となり、合資会社新田帯革製造所として発足し、長次郎は無限責任代表社員となった。1911年(明治44年)には、革をなめすためのタンニンを製造するため、良質のタンニンを含む檞(かしわ)の林野が広がる北海道幕別町止若(やむわっか)に、タンニン固形エキス製造工場の操業を開始した。
1920年(大正9年)に政府の臨時産業調査委員に選ばれ、1921年(大正10年)に帝国発明協会から発明功績者として表彰された。
伊予農業銀行、愛媛貯蓄銀行、愛媛銀行各取締役なども務めた[3][5]。
篤志家として[編集]
関連項目[編集]琴ノ浦 温山荘園(ことのうら おんざんそうえん)は、和歌山県海南市にある日本庭園。国の名勝。
概要[編集]大正初期から昭和初期にかけて、武者小路千家家元名代の木津宗泉により作庭された潮入式池泉回遊庭園である。ニッタ創業者である新田長次郎の別荘庭園として作られたもので、面積は59,400平方メートルで日本全国で17位、個人庭園としては日本最大である。名称は新田の雅号である温山より帝国海軍元帥・東郷平八郎が命名した。紀州の名園として名高く皇族らがしばしば来訪し、随行した桂太郎、清浦奎吾、東郷平八郎、秋山好古らの扁額が主屋「温山荘」に掲げられている。
海から水を引くことで潮の干満に応じて水位が上下するという汐入りの池が主屋を中心に、3つ配され、その周囲に茶室や座敷が点在する。園内にあるトンネルを抜けると黒江湾を望むことができる。
国名勝指定庭園 重要文化財指定建造物
トンネルもある紀州随一の14000坪の大庭園
琴ノ浦 温山荘園 和歌山県海南市船尾370
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:新田 長次郎(にった ちょうじろう)
戒名:金剛心院温山徳壽居士
墓地:日本佛法最初四天王寺碑、日本
明治時代から昭和前期の日本の商人(皮革商)[1]、実業家、資産家。新田帯革製造所(現ニッタ)の創業者[2]。新田帯革製造所、新田ベニヤ製造所各代表社員[3]。号は温山。愛媛県出身で、族籍は大阪府平民[1][3]。日本国内一流の製革業者として知られた[4]。
経歴[編集]1857年(安政4年)、伊予国温泉郡山西村(のちの味生村大字山西、現在の愛媛県松山市山西町)の農家に生まれる。新田喜惣次の次男[5][6]。母をウタ[2](あるいは歌子[7])という。家は、幕末には1町歩ほどの田畑を有し、下男(作男)を雇い、牛を飼う本百姓であった[6]。
5歳の頃、父と死別し、9歳の時から12歳の時まで寺子屋に学び、その後は母を助けて代々営む農業に勤しんだ[8]。15歳のころ、何人かの人たちの好意によって教えてもらいながら算盤と和算法を身につけた[9]。
1877年(明治10年)、20歳の時に大阪に出て、米屋に丁稚奉公した[10]。米屋を辞めて藤田組製革所に入り、西欧式製革技術を習得した[10]。製革という仕事は、当時非常な賤業として普通の百姓さえも忌み嫌って手を染めぬものであった[11]。皮革を扱う産業は江戸時代には多くの地域で被差別部落特有の産業とされていた[9]。それにも拘わらず長次郎は自ら之を選び進んで従事して一生懸命に習練研鑚した[11]。
1885年(明治18年)に新田組として独立し、大阪府西成郡難波村久保吉(現在の大阪市浪速区久保吉2丁目)に空家を借り、製革工場を起こした。当初は、製靴用の薄物油革を製造していたが、知人の出資を得て工場を拡張し、1888年(明治21年)には大阪紡績(現在の東洋紡)の依頼で動力伝動用革ベルトの国産化に日本で初めて成功、新田製地球印帯革として、その後、全国で設立された紡績会社に販路を広げていく。1897年(明治30年)には、長次郎の単独経営となる。1901年(明治34年)に、東京出張店を開設し、その後各地に出張店を設置した。1902年(明治35年)には、実業功績者として、緑綬褒章を授与された。1904年(明治37年)には、革ベルト接合法で最初の特許を取得し、これにより、耐久性に優れた製品化が可能となった。
1909年(明治42年)には、個人企業から合資会社となり、合資会社新田帯革製造所として発足し、長次郎は無限責任代表社員となった。1911年(明治44年)には、革をなめすためのタンニンを製造するため、良質のタンニンを含む檞(かしわ)の林野が広がる北海道幕別町止若(やむわっか)に、タンニン固形エキス製造工場の操業を開始した。
1920年(大正9年)に政府の臨時産業調査委員に選ばれ、1921年(大正10年)に帝国発明協会から発明功績者として表彰された。
伊予農業銀行、愛媛貯蓄銀行、愛媛銀行各取締役なども務めた[3][5]。
篤志家として[編集]
- 有隣尋常小学校(現在の大阪市立栄小学校)の設立
関連項目[編集]琴ノ浦 温山荘園(ことのうら おんざんそうえん)は、和歌山県海南市にある日本庭園。国の名勝。
概要[編集]大正初期から昭和初期にかけて、武者小路千家家元名代の木津宗泉により作庭された潮入式池泉回遊庭園である。ニッタ創業者である新田長次郎の別荘庭園として作られたもので、面積は59,400平方メートルで日本全国で17位、個人庭園としては日本最大である。名称は新田の雅号である温山より帝国海軍元帥・東郷平八郎が命名した。紀州の名園として名高く皇族らがしばしば来訪し、随行した桂太郎、清浦奎吾、東郷平八郎、秋山好古らの扁額が主屋「温山荘」に掲げられている。
海から水を引くことで潮の干満に応じて水位が上下するという汐入りの池が主屋を中心に、3つ配され、その周囲に茶室や座敷が点在する。園内にあるトンネルを抜けると黒江湾を望むことができる。
国名勝指定庭園 重要文化財指定建造物
トンネルもある紀州随一の14000坪の大庭園
琴ノ浦 温山荘園 和歌山県海南市船尾370
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