江戸から明治へ 祖先は福岡県八女郡広川町の出身
我が家系(北海道の江口家)は、福岡県八女郡広川町の江口家より 江口嘉平(江口文藏の二男)が分家し、明治27年に長男江口幸太郎が 北海道開拓の屯田兵として、滝川市江部乙に家族とともに移住したことから始まる。
<写真は家長の江口嘉平、妻ソメ(1代目)>
幸太郎の長男江口正光が当時の記録を残している。
(正光の記録より抜粋)
江口嘉平は福岡県上妻郡下廣川村大字廣川十三番地に住居せしが、三男四女をかかえ商業していたが、当時北海道開拓の屯田兵募集のあり、長男(幸太郎)の希望を聞き入れ、大家族を引き連れ江部乙屯田に応募したもの 明治27年5月5日手宮より汽車の乗り空知太まで、それから山道を家族引き連れ歩行する。
江部乙村史にある如く深山なり。戸主幸太郎は屯田兵としての教練に出、家族の者は一家総出して開墾に従事する。
<写真は家長の江口嘉平、妻ソメ(1代目)>
幸太郎の長男江口正光が当時の記録を残している。
(正光の記録より抜粋)
江口嘉平は福岡県上妻郡下廣川村大字廣川十三番地に住居せしが、三男四女をかかえ商業していたが、当時北海道開拓の屯田兵募集のあり、長男(幸太郎)の希望を聞き入れ、大家族を引き連れ江部乙屯田に応募したもの 明治27年5月5日手宮より汽車の乗り空知太まで、それから山道を家族引き連れ歩行する。
江部乙村史にある如く深山なり。戸主幸太郎は屯田兵としての教練に出、家族の者は一家総出して開墾に従事する。
1953(昭和28年)頃 江口正光 水田づくりに精を出す
江部乙にて水田づくりに精を出す正光
田植え、稲刈りの時期には、成人し江部乙を離れた子ども達も集まり、総出で農作業を行った写真が残されている
この頃から、勉がカメラを購入し家族の写真を多く残すようになった
田植え、稲刈りの時期には、成人し江部乙を離れた子ども達も集まり、総出で農作業を行った写真が残されている
この頃から、勉がカメラを購入し家族の写真を多く残すようになった