この追悼サイトは、 市原 悦子(女優、声優・代表作「家政婦は見た」など)さまのために作成されました。
享年82歳 、誕生日 1936年1月24日、命日 2019年1月12日
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市原 悦子(いちはら えつこ、1936年〈昭和11年〉1月24日 - 2019年〈平成31年〉1月12日[2]、本名:塩見 悦子)は、日本の女優・声優。千葉県千葉市出身。早稲田大学 第二文学部卒業。身長160cm、夫は舞台演出家の塩見哲。
高校卒業後、富士銀行に就職が決まっていたが演劇への思いが断ちがたく[3]、劇団俳優座養成所に6期生として入所する。同期には近藤洋介、宮部昭夫、川口敦子、大山のぶ代、阿部百合子、阿部六郎、佐伯赫哉、山本清らがいた[4]。
1957年に入団し、『りこうなお嫁さん』でデビュー。同年、雑誌『新劇』の新人推賞を受賞。1959年に『千鳥』で芸術祭奨励賞を受ける。1963年には新劇演劇賞、1964年にゴールデン・アロー賞新人賞に輝き、新劇女優として高い評価を受ける。
私生活では養成所同期の演出家・塩見哲と1961年に結婚(2度の流産で子どもには恵まれなかったが、おしどり夫婦として知られた)[5]。
1971年10月に夫とともに退団し、1972年に番衆プロを設立する[5]。1987年4月、「有限会社ワンダー・プロダクション」を設立、塩見が社長となった。
1975年に始まったテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』では、すべての登場人物の声を常田富士男と2人のみで長年演じ続けて親しまれた。放映終了後から復活を望む声が多く、2005年にはゴールデンタイムで再放送された。同年、『赤い殺意』で強姦された強盗と恋に落ちるという主人公の主婦を演じ、17.5%と当時の放送時間帯としては高視聴率を獲得[6]。
1983年からは『家政婦は見た!』に主演し、四半世紀以上に渡って演じ続ける当たり役となる。シリーズは好評で高視聴率を獲得し、土曜ワイド劇場を代表する作品となった。
1990年、映画『黒い雨』の演技により第13回日本アカデミー賞の最優秀助演女優賞を受賞。
2011年、福島第一原子力発電所事故に関連して「原発ゼロをめざす7.2緊急行動」呼びかけ人を務めた[7](他に湯川れい子・根岸季衣など)。
2012年、S状結腸腫瘍手術のため、翌2013年1月に公開予定だった映画『東京家族』をクランクイン前に降板した[8]。代役は吉行和子が務めた。
2014年4月には53年間連れ添った夫の塩見哲と死別した[1][9]。
2017年1月13日、自己免疫性脊髄炎の加療のため休業を発表[10]。6月27日に翌年のNHK大河ドラマ『西郷どん』のナレーションでの復帰が発表されたが[11]、11月22日、体調が優れないことを考慮して降板し西田敏行に変更された[12][13]。その後、2018年3月21日放送の『おやすみ日本 眠いいね!』(NHK) で1年5ヶ月ぶりに仕事復帰(3月12日収録)[14]。
2018年12月下旬に盲腸のため入院。手術は行わず投薬治療開始。一時復調し正月を自宅で過ごすが再び体調を崩し1月5日から再び入院。一週間後の1月12日午後1時31分、心不全のため、東京都の病院で死去[2]。82歳だった。13日未明(12日深夜)に放送された『おやすみ日本 眠いいね!』では、虫垂炎のため都内の病院に入院していることが発表され、市原の訃報は伏せられていた[15][16]。
「木のまわりを、ただ漂っていたい」 市原悦子さんは樹木葬を選びました。
「永代型デジタル墓」 スマートシニア(神奈川県) を設置しています
千葉県袖ケ浦市 曹洞宗、真光寺 エノキの樹元
※注:このサイトは、市原悦子に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年82歳 、誕生日 1936年1月24日、命日 2019年1月12日
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市原 悦子(いちはら えつこ、1936年〈昭和11年〉1月24日 - 2019年〈平成31年〉1月12日[2]、本名:塩見 悦子)は、日本の女優・声優。千葉県千葉市出身。早稲田大学 第二文学部卒業。身長160cm、夫は舞台演出家の塩見哲。
来歴[編集]
千葉県千葉市に銀行員の父と元教員の母の長女として生まれる。9歳で疎開先の四街道市で敗戦を迎えた。中学校2年生で千葉市末広中学校へ転校。ここで演劇クラブに入り、教師の岩上廣志から演劇の楽しさを教わる。千葉県立千葉第一高等学校(現在の県立千葉高校)に進学すると、演劇部で活動し、伊藤貞助作の『村一番の大欅』で県大会に出場して個人演技賞を受賞した[3]。高校卒業後、富士銀行に就職が決まっていたが演劇への思いが断ちがたく[3]、劇団俳優座養成所に6期生として入所する。同期には近藤洋介、宮部昭夫、川口敦子、大山のぶ代、阿部百合子、阿部六郎、佐伯赫哉、山本清らがいた[4]。
1957年に入団し、『りこうなお嫁さん』でデビュー。同年、雑誌『新劇』の新人推賞を受賞。1959年に『千鳥』で芸術祭奨励賞を受ける。1963年には新劇演劇賞、1964年にゴールデン・アロー賞新人賞に輝き、新劇女優として高い評価を受ける。
私生活では養成所同期の演出家・塩見哲と1961年に結婚(2度の流産で子どもには恵まれなかったが、おしどり夫婦として知られた)[5]。
1971年10月に夫とともに退団し、1972年に番衆プロを設立する[5]。1987年4月、「有限会社ワンダー・プロダクション」を設立、塩見が社長となった。
1975年に始まったテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』では、すべての登場人物の声を常田富士男と2人のみで長年演じ続けて親しまれた。放映終了後から復活を望む声が多く、2005年にはゴールデンタイムで再放送された。同年、『赤い殺意』で強姦された強盗と恋に落ちるという主人公の主婦を演じ、17.5%と当時の放送時間帯としては高視聴率を獲得[6]。
1983年からは『家政婦は見た!』に主演し、四半世紀以上に渡って演じ続ける当たり役となる。シリーズは好評で高視聴率を獲得し、土曜ワイド劇場を代表する作品となった。
1990年、映画『黒い雨』の演技により第13回日本アカデミー賞の最優秀助演女優賞を受賞。
2011年、福島第一原子力発電所事故に関連して「原発ゼロをめざす7.2緊急行動」呼びかけ人を務めた[7](他に湯川れい子・根岸季衣など)。
2012年、S状結腸腫瘍手術のため、翌2013年1月に公開予定だった映画『東京家族』をクランクイン前に降板した[8]。代役は吉行和子が務めた。
2014年4月には53年間連れ添った夫の塩見哲と死別した[1][9]。
2017年1月13日、自己免疫性脊髄炎の加療のため休業を発表[10]。6月27日に翌年のNHK大河ドラマ『西郷どん』のナレーションでの復帰が発表されたが[11]、11月22日、体調が優れないことを考慮して降板し西田敏行に変更された[12][13]。その後、2018年3月21日放送の『おやすみ日本 眠いいね!』(NHK) で1年5ヶ月ぶりに仕事復帰(3月12日収録)[14]。
2018年12月下旬に盲腸のため入院。手術は行わず投薬治療開始。一時復調し正月を自宅で過ごすが再び体調を崩し1月5日から再び入院。一週間後の1月12日午後1時31分、心不全のため、東京都の病院で死去[2]。82歳だった。13日未明(12日深夜)に放送された『おやすみ日本 眠いいね!』では、虫垂炎のため都内の病院に入院していることが発表され、市原の訃報は伏せられていた[15][16]。
受賞歴[編集]
- 1958年 新劇新人推賞(『びわ法師』)
- 1959年 第14回芸術祭賞 演劇部門 芸術祭奨励賞(俳優座『千鳥』)
- 1962年 新劇演技賞(『三文オペラ』)
- 1964年 第2回(昭和39年度)ゴールデン・アロー賞 新人賞(『ハムレット』)
- 1975年 第9回(1974年)紀伊國屋演劇賞 個人賞(『トロイアの女』)
- 1986年 都民文化栄誉賞
- 1990年 第13回日本アカデミー賞 最優秀助演女優賞 (『黒い雨』)
- 1998年 第21回日本アカデミー賞 優秀助演女優賞(『うなぎ』)
- 1999年 第6回読売演劇大賞 優秀女優賞(新国立劇場『ディア・ライアー』)
- 2002年 第28回(2001年度)放送文化基金賞 番組部門 個別分野 出演者賞(『長崎ぶらぶら節』)
- 2003年 第27回山路ふみ子映画賞 山路ふみ子女優賞(『蕨野行』)
- 2009年 第16回読売演劇大賞 優秀女優賞(演劇企画集団THE・ガジラ『ゆらゆら』)
- 2012年 第20回橋田賞 特別賞(『家政婦は見た!』シリーズ)
「木のまわりを、ただ漂っていたい」 市原悦子さんは樹木葬を選びました。
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※注:このサイトは、市原悦子に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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