承継
軌跡

生い立ち

赤塚不二夫は、満州国河北省安平県安平口(現在の中国河北省承徳市安平県と北京市美雲県安平口の境界)で生まれた。赤塚不二七とその妻リヨの間に生まれた6人の子供の長男である。五兵衛口は、中国河北省と満州アステ州の国境の町で、万里の長城の山海関と慈勇関の間の要衝であった。父・赤塚俊一は、新潟県西蒲原郡四ツ貝村稲荷村(現新潟市西蒲原区稲荷潟)の農民であった。関東軍の憲兵となり、同年9月の満州事変の際には、国際連盟リットン調査団の巡視官郵便監察官鉄道警察官の護衛として奉天に赴任した。

赤塚の父、敏一は非常に厳格で権威のある人だった。幼い頃の赤塚は父をとても恐れていたが、常に地元の中国人に平等に接し、村人にも物資を分け与えるように心がけていた。赤塚は、地元の村人たちに物資を分け与え、子供たちに中国人を軽んじてはいけないと教える正義感の強い人だった。

趣味・娯楽

晩年はアルコール依存症に苦しめられるが、酒に溺れた原因は極度の恥ずかしがり屋であるため、酒なくして人と向き合う事が出来なかった。
赤塚は、猫好きで、映画好きだった。自作のマンガを描きながら、猫のイラストも描いていた。1970年代には、死んだふりをしたり、バンザイをしたりする達人猫としてCMに出演していた。黒澤明監督の映画「七人の侍」に登場する三船敏郎にちなんで、赤塚の猫の一匹は「菊千代」と名付けられた。1997年、菊千代は亡くなり、赤塚自身だけでなく、周辺のファンも悲しんだ。

赤塚の好きなキャラクターは「バカボンのパパ」で、親しみやすく描くことができたからだ。また、バカボンは自分の父親をモデルにしたと言い、後年は自分もよくパパの格好をしていたという。おそ松くん』のお母さんは、赤塚さんのお母さんである松野理代さんがモデルだと言われています。

人間性

共に強い立場にありながら弱い者を守り、決して差別しない態度をとった父親と奈良での小学生時代の同級生の奥村の二人と接した少年時代の経験がきっかけとなって後の赤塚作品では「弱い者いじめはしない」という姿勢が貫かれることとなったとされ、小説家の井上ひさしは「ある意味で、赤塚の作品は道徳的だ。例えば、暴力シーンはいっぱい出てくるが、弱虫でチビのハタ坊がいじめられるシーンは決して出てこない。喧嘩も、対等か、強い者に逆らう時に起きている。チビ太が一人で六つ子に挑んでいくような時だ。」