この追悼サイトは、 林 芙美子(小説家・「放浪記」など)さまのために作成されました。
享年47歳 、誕生日 1903年12月31日、命日 1951年6月28日
※ 林さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家。本名フミコ。
幼少期からの不遇の半生を綴った『放浪記』(1928年)が好評を博す。詩情豊かな文体で、暗い現実をリアルに描写する作風。作品に『風琴と魚の町』(1931年)、『晩菊』(1948年)、『浮雲』(1951年)などがある。
人物[編集]山口県生まれ。尾道市立高等女学校卒。複雑な生い立ち、様々な職業を経験した後、『放浪記』がベストセラーとなり、詩集『蒼馬を見たり』や、『風琴と魚の町』『清貧の書』などの自伝的作品で文名を高めた。その後、『牡蠣』などの客観小説に転じ、戦中は大陸や南方に従軍して短編を書き継いだ。戦後、新聞小説で成功を収め、短編『晩菊』や長編『浮雲』『めし』(絶筆)などを旺盛に発表。貧しい現実を描写しながらも、夢や明るさを失わない独特の作風で人気を得たが、心臓麻痺により急逝。
その生涯は、「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」[1]と言われるように波瀾万丈だった。
1914(大正3年)年10月(11歳)、石炭産業で栄えていた現在の福岡県直方市に移り住む。 「放浪記」の冒頭で、直方での日々を赤裸々に記している。 <砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった> <門司のように活気あふれる街でもない。> <長崎のように美しい街でもない。> <佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった>
1916年(大正5年)(13歳)、尾道市にしばらく落ち着き、1918年、市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業した。
林芙美子文学碑。放浪記の一節が刻まれ、揮毫は尾道小の恩師・小林正雄。尾道を代表する風景である。1918年(大正7年)(15歳)、文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学した。図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。女学校の教諭も文才を育んだ。18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せた。尾道では親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」した。
1922年(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活し、義父・実母も東京に来てからは、その露天商を手伝った。翌1923年、卒業した恋人は帰郷して婚約を取り消した。9月の関東大震災を、3人はしばらく尾道や四国に避けた。この頃から筆名に『芙美子』を用い、つけ始めた日記が『放浪記』の原型になった。
1926年(23歳)、画学生の手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)[6]と内縁の結婚をし、落ち着いた。緑敏は実直で、妻の執筆を助ける人であった。
1928年(昭和3年)2月、長谷川時雨主宰の女人芸術誌が芙美子の詩『黍畑』を載せ、10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載した。その間の1929年6月には友人の寄金を受けて、初の単行本の、詩集『蒼馬を見たり』を自費出版した。『放浪記』は好評で、1930年改造社刊行の『放浪記』と『続放浪記』とは、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は流行作家になった。印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた。
1931年11月、朝鮮・シベリヤ経由でパリへ一人旅した。既に満州事変は始まっていた。金銭の余裕があれば旅に出て、向こう見ずな単独行を怖じなかった。ロンドンにも住み、1932年6月に帰国した。旅先から紀行文を雑誌社に送り続けた。「共産党にカンパを約した」との嫌疑で、1933年に中野警察署に留置された。
1935年(昭和10年)(32歳)の短編『牡蠣』は、私小説的な作風を離れた本格的な小説として、評価された。
1941年(昭和16年)には、「ついのすみか」となった自宅を下落合に新築し、飛行機で満州国境を慰問した。 同年8月には情報局により風俗壊乱の恐れのある小説として『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分(当時は対象小説の題名は秘匿されていた)を受けた[10]。
太平洋戦争前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在した。戦局が押し詰まって出版界も逼塞し、1944年4月から、綠敏の故郷に近い長野県の上林温泉、次いで角間温泉に疎開した。疎開の間二階を借りた民家(長野県下高井郡山ノ内町角間)が、林芙美子文学館 になっている。
下落合の自宅は空襲を免れ、1945年(昭和20年)10月に帰京した。自由に書ける時代を喜んだ。用紙事情は厳しかったものの、人は活字に飢えていて、翌1946年から新旧の出版社が動き始めた。
かって原稿の売り込みに苦労したが故に、人気作家になってからも執筆依頼を断らなかった芙美子は、ジャーナリズムに便利だった。書きに書いた。その中に『晩菊』や『浮雲』などの名品もあった。1948年の女流文学者賞は『晩菊』で受賞した。私用や講演や取材の旅も繁くした。1949年から1951年に掛けては、9本の中長編を並行に、新聞・雑誌に連載した。
1951年6月26日に撮影。この夜、容態が急変して急逝した。1951年(昭和26年)、6月27日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌28日払暁心臓麻痺で急逝した。47歳没。『ジャーナリズムに殺された』と、世間は言った。
公開中の作品
区立林芙美子記念館 東京都新宿区中井2-20-1 03-5996-9207
享年47歳 、誕生日 1903年12月31日、命日 1951年6月28日
※ 林さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家。本名フミコ。
幼少期からの不遇の半生を綴った『放浪記』(1928年)が好評を博す。詩情豊かな文体で、暗い現実をリアルに描写する作風。作品に『風琴と魚の町』(1931年)、『晩菊』(1948年)、『浮雲』(1951年)などがある。
人物[編集]山口県生まれ。尾道市立高等女学校卒。複雑な生い立ち、様々な職業を経験した後、『放浪記』がベストセラーとなり、詩集『蒼馬を見たり』や、『風琴と魚の町』『清貧の書』などの自伝的作品で文名を高めた。その後、『牡蠣』などの客観小説に転じ、戦中は大陸や南方に従軍して短編を書き継いだ。戦後、新聞小説で成功を収め、短編『晩菊』や長編『浮雲』『めし』(絶筆)などを旺盛に発表。貧しい現実を描写しながらも、夢や明るさを失わない独特の作風で人気を得たが、心臓麻痺により急逝。
その生涯は、「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」[1]と言われるように波瀾万丈だった。
1914(大正3年)年10月(11歳)、石炭産業で栄えていた現在の福岡県直方市に移り住む。 「放浪記」の冒頭で、直方での日々を赤裸々に記している。 <砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった> <門司のように活気あふれる街でもない。> <長崎のように美しい街でもない。> <佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった>
1916年(大正5年)(13歳)、尾道市にしばらく落ち着き、1918年、市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業した。
林芙美子文学碑。放浪記の一節が刻まれ、揮毫は尾道小の恩師・小林正雄。尾道を代表する風景である。1918年(大正7年)(15歳)、文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学した。図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。女学校の教諭も文才を育んだ。18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せた。尾道では親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」した。
1922年(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活し、義父・実母も東京に来てからは、その露天商を手伝った。翌1923年、卒業した恋人は帰郷して婚約を取り消した。9月の関東大震災を、3人はしばらく尾道や四国に避けた。この頃から筆名に『芙美子』を用い、つけ始めた日記が『放浪記』の原型になった。
1926年(23歳)、画学生の手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)[6]と内縁の結婚をし、落ち着いた。緑敏は実直で、妻の執筆を助ける人であった。
1928年(昭和3年)2月、長谷川時雨主宰の女人芸術誌が芙美子の詩『黍畑』を載せ、10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載した。その間の1929年6月には友人の寄金を受けて、初の単行本の、詩集『蒼馬を見たり』を自費出版した。『放浪記』は好評で、1930年改造社刊行の『放浪記』と『続放浪記』とは、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は流行作家になった。印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた。
1931年11月、朝鮮・シベリヤ経由でパリへ一人旅した。既に満州事変は始まっていた。金銭の余裕があれば旅に出て、向こう見ずな単独行を怖じなかった。ロンドンにも住み、1932年6月に帰国した。旅先から紀行文を雑誌社に送り続けた。「共産党にカンパを約した」との嫌疑で、1933年に中野警察署に留置された。
1935年(昭和10年)(32歳)の短編『牡蠣』は、私小説的な作風を離れた本格的な小説として、評価された。
1941年(昭和16年)には、「ついのすみか」となった自宅を下落合に新築し、飛行機で満州国境を慰問した。 同年8月には情報局により風俗壊乱の恐れのある小説として『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分(当時は対象小説の題名は秘匿されていた)を受けた[10]。
太平洋戦争前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在した。戦局が押し詰まって出版界も逼塞し、1944年4月から、綠敏の故郷に近い長野県の上林温泉、次いで角間温泉に疎開した。疎開の間二階を借りた民家(長野県下高井郡山ノ内町角間)が、林芙美子文学館 になっている。
下落合の自宅は空襲を免れ、1945年(昭和20年)10月に帰京した。自由に書ける時代を喜んだ。用紙事情は厳しかったものの、人は活字に飢えていて、翌1946年から新旧の出版社が動き始めた。
かって原稿の売り込みに苦労したが故に、人気作家になってからも執筆依頼を断らなかった芙美子は、ジャーナリズムに便利だった。書きに書いた。その中に『晩菊』や『浮雲』などの名品もあった。1948年の女流文学者賞は『晩菊』で受賞した。私用や講演や取材の旅も繁くした。1949年から1951年に掛けては、9本の中長編を並行に、新聞・雑誌に連載した。
1951年6月26日に撮影。この夜、容態が急変して急逝した。1951年(昭和26年)、6月27日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌28日払暁心臓麻痺で急逝した。47歳没。『ジャーナリズムに殺された』と、世間は言った。
公開中の作品
- 愛情 (新字旧仮名、作品ID:58708)
- 愛する人達 (新字旧仮名、作品ID:24361)
- あひびき (旧字旧仮名、作品ID:57374)
- 蒼馬を見たり 03 蒼馬を見たり(新字旧仮名、作品ID:46392)
- 朝御飯 (新字新仮名、作品ID:45307)
- 朝夕 (新字旧仮名、作品ID:24347)
- 雨 (旧字旧仮名、作品ID:58231)
- 或る女 (旧字旧仮名、作品ID:24350)
- 田舎がえり (新字新仮名、作品ID:42332)
- うき草 (旧字旧仮名、作品ID:58232)
- 浮雲 (新字旧仮名、作品ID:52236)
- 美しい犬 (旧字新仮名、作品ID:24375)
- 絵本 (新字旧仮名、作品ID:24368)
- 大島行 (旧字旧仮名、作品ID:4647)
- 落合町山川記 (新字新仮名、作品ID:42333)
- お父さん (新字新仮名、作品ID:24370)
- おにおん倶楽部 (旧字新仮名、作品ID:24374)
- 帯広まで (新字新仮名、作品ID:50922)
- 蛙 (新字旧仮名、作品ID:46643)
- 蛙 (新字新仮名、作品ID:3047)
- 柿の実 (新字旧仮名、作品ID:47047)
- 貸家探し (新字新仮名、作品ID:42334)
- 亀さん (旧字新仮名、作品ID:24371)
- 河沙魚 (新字新仮名、作品ID:1817)
- 狐物語 (旧字新仮名、作品ID:24373)
- 着物雑考 (新字新仮名、作品ID:47817)
- 暗い花 (旧字旧仮名、作品ID:58233)
- クララ (旧字新仮名、作品ID:24366)
- 玄関の手帖 (旧字旧仮名、作品ID:24354)
- 幸福の彼方 (新字旧仮名、作品ID:24355)
- 子供たち (新字旧仮名、作品ID:24367)
- 婚期 (旧字旧仮名、作品ID:24358)
- 魚の序文 (新字新仮名、作品ID:1815)
- シベリヤの三等列車 (新字旧仮名、作品ID:48338)
- 秋果 (旧字旧仮名、作品ID:24357)
- 就職 (旧字旧仮名、作品ID:24353)
- 新生の門 ――栃木の女囚刑務所を訪ねて(新字新仮名、作品ID:47818)
- 新版 放浪記 (新字新仮名、作品ID:1813)
- 生活 (新字新仮名、作品ID:42335)
- 清修館挿話 (新字新仮名、作品ID:24346)
- 清貧の書 (新字新仮名、作品ID:1816)
- 下町 (新字旧仮名、作品ID:42159)
- 谷間からの手紙 (新字旧仮名、作品ID:24352)
- 旅人 (旧字旧仮名、作品ID:57898)
- 多摩川 (旧字旧仮名、作品ID:24351)
- 小さい花 (新字旧仮名、作品ID:24349)
- 鶴の笛 (新字新仮名、作品ID:24372)
- 泣虫小僧 (新字新仮名、作品ID:3220)
- なぐさめ (旧字旧仮名、作品ID:58234)
- 濡れた葦 (新字旧仮名、作品ID:24356)
- 瀑布 (新字旧仮名、作品ID:24363)
- 晩菊 (新字新仮名、作品ID:59364)
- 晩菊 (新字旧仮名、作品ID:4599)
- ひらめの学校 (新字新仮名、作品ID:24369)
- 風琴と魚の町 (新字新仮名、作品ID:1814)
- 風媒 (旧字旧仮名、作品ID:58235)
- 梟の大旅行 (旧字新仮名、作品ID:24365)
- ふしぎな岩 (新字新仮名、作品ID:56871)
- 文学的自叙伝 (新字新仮名、作品ID:42336)
- 平凡な女 (新字新仮名、作品ID:56044)
- 放浪記(初出) (新字新仮名、作品ID:45649)
- 崩浪亭主人 (旧字旧仮名、作品ID:24362)
- ボルネオ ダイヤ (旧字旧仮名、作品ID:57375)
- 摩周湖紀行 ――北海道の旅より――(旧字旧仮名、作品ID:18329)
- 瑪瑙盤 (新字旧仮名、作品ID:24344)
- 屋久島紀行 (旧字旧仮名、作品ID:4989)
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- 夜福 (旧字旧仮名、作品ID:24359)
- 「リラ」の女達 (新字旧仮名、作品ID:24345)
- 淪落 (新字新仮名、作品ID:24360)
- 恋愛の微醺 (新字新仮名、作品ID:42337)
- 私の先生 (新字新仮名、作品ID:47785)
区立林芙美子記念館 東京都新宿区中井2-20-1 03-5996-9207
- 萬昌院功運寺の墓
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