この想いでサイトは、 荻野 吟子(日本最初の女医)さまを承継するために作成されました。
享年62歳 、誕生日 1851年4月4日、命日 1913年6月23日
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本名:荻野 吟子(おぎの ぎんこ)
戒名:-
墓地:雑司ケ谷霊園、東京都
荻野 吟子(おぎの ぎんこ〈戸籍上の本名:荻野ぎん[6]〉、1851年4月4日〈嘉永4年3月3日〉 - 1913年〈大正2年〉6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である[1][2][7]。女性運動家としても知られる[1][2]。
なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していた[注 1]。西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネ(1827年 - 1903年)がいる[9]。
前例がないという理由で開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した実業家の高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して内務省衛生局局長、長与専斎を紹介。吟子は好寿院に入る際にいろいろの書物を捜した末『令義解』という奈良時代の書物に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ[9]、このことを強調し請願をした[8](女医 (律令制)も参照)。併せて高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に持たせた。吟子に依頼を受けた石黒忠悳も、責任があるので衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と食いさがったそうである。こうして吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになり、1884年(明治17年)に「女医公許」が決定しようやく受験が認められる。
荻野吟子にかかわる年表 西暦和暦主なできごと1851年嘉永4年俵瀬村(現熊谷市)で誕生1868年慶応4年稲村貫一郎と結婚1870年明治3年病気で協議離婚。入院、女医を志す1875年明治8年東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)入学1879年明治12年私立医学校好寿院入学1882年明治15年好寿院を卒業。医術開業試験願書却下続く1884年明治17年医術開業試験受験許可1885年明治18年試験合格、医院開業1886年明治19年本郷教会にて洗礼を受ける、東京婦人矯風会入会1887年明治20年大日本婦人衛生会設立1890年明治23年議会婦人傍聴禁止撤回運動に参画
志方之善と再婚1894年明治27年渡道、夫とともにキリスト教による理想郷を目指す1905年明治38年夫の死去1908年明治41年東京へ戻り、医院を開業1913年大正2年死去
描いた作品[編集]
荻野吟子記念館 埼玉県熊谷市俵瀬581-1
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享年62歳 、誕生日 1851年4月4日、命日 1913年6月23日
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本名:荻野 吟子(おぎの ぎんこ)
戒名:-
墓地:雑司ケ谷霊園、東京都
関連リンク
荻野 吟子(おぎの ぎんこ〈戸籍上の本名:荻野ぎん[6]〉、1851年4月4日〈嘉永4年3月3日〉 - 1913年〈大正2年〉6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である[1][2][7]。女性運動家としても知られる[1][2]。
なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していた[注 1]。西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネ(1827年 - 1903年)がいる[9]。
- 1851年(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬[3][4][8]、2005年〈平成17年〉9月30日までは大里郡妻沼町大字俵瀬)に、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生をうける[4][6][注 2]。
- 1868年(慶応4年) - 武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男稲村貫一郎と結婚[3][4][5][6][8]。
- 1870年(明治3年) - 夫からうつされた淋病がもとで離婚。上京して大学東校に入院し婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す[1][3][5][8][11][注 3]。
- 1873年(明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事[2][3][4][5][11]。頼圀より後妻に望まれる[要出典]。
- 1874年(明治7年) - 甲府の内藤満寿子の私塾の教師となる[3][4][5]。
- 1875年(明治8年) - 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学[2][3][4][5][8]。
- 1879年(明治12年) - 首席で卒業。同学校の永井久一郎教授紹介により軍医監で子爵の石黒忠悳(ただのり)に女医の必要性を説き、石黒を介して、典薬寮出身で侍医の高階経徳が経営する下谷練塀(ねりべい)町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される[2][3][4][5][8]。男子学生に混じり様々ないじめや苦労の艱難辛苦を舐めつつ3年間で優秀な成績で修了する。しかし、かつての日本に女医は一人もおらず前例がないことにより、東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった。この頃のことを、吟子は『女学雑誌』354号にこのように書いている。
- 「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」
前例がないという理由で開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した実業家の高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して内務省衛生局局長、長与専斎を紹介。吟子は好寿院に入る際にいろいろの書物を捜した末『令義解』という奈良時代の書物に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ[9]、このことを強調し請願をした[8](女医 (律令制)も参照)。併せて高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に持たせた。吟子に依頼を受けた石黒忠悳も、責任があるので衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と食いさがったそうである。こうして吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになり、1884年(明治17年)に「女医公許」が決定しようやく受験が認められる。
- 1884年(明治17年)9月 - 医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験、吟子1人のみ合格。
- 1885年(明治18年)3月 - 後期試験を受験し合格[5]。同年5月、湯島三組町に診療所「産婦人科荻野医院」を開業[4][11]。34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して15年が経過していた。そのときすでに父はもとより、母も前月に他界していた。吟子のことは新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。診療所は、繁盛し場所が手狭なため、翌年下谷に移転する[3][5]。
荻野吟子にかかわる年表 西暦和暦主なできごと1851年嘉永4年俵瀬村(現熊谷市)で誕生1868年慶応4年稲村貫一郎と結婚1870年明治3年病気で協議離婚。入院、女医を志す1875年明治8年東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)入学1879年明治12年私立医学校好寿院入学1882年明治15年好寿院を卒業。医術開業試験願書却下続く1884年明治17年医術開業試験受験許可1885年明治18年試験合格、医院開業1886年明治19年本郷教会にて洗礼を受ける、東京婦人矯風会入会1887年明治20年大日本婦人衛生会設立1890年明治23年議会婦人傍聴禁止撤回運動に参画
志方之善と再婚1894年明治27年渡道、夫とともにキリスト教による理想郷を目指す1905年明治38年夫の死去1908年明治41年東京へ戻り、医院を開業1913年大正2年死去
描いた作品[編集]
- 小説 渡辺淳一『花埋み』[1]
- NHK『歴史秘話ヒストリア』「あなたを助けたい ~女医第1号 荻野吟子の恋~」(2013年11月20日)演:笛木優子
- 映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』(2019年)演:若村麻由美
- 漫画 寺館和子『蒼く輝きて〜日本最初の女医、萩野吟子〜』
荻野吟子記念館 埼玉県熊谷市俵瀬581-1
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