この追悼サイトは、 中村 八大(作曲家、ジャズピアニスト・「上を向いて歩こう」)さまのために作成されました。
享年61歳 、誕生日 1931年1月20日、命日 1992年6月10日
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中村 八大(なかむら はちだい、1931年〈昭和6年〉1月20日 - 1992年〈平成4年〉6月10日)は、日本の作曲家、ジャズピアニスト。
『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、1950年代末から1960年代にかけての数々のヒット曲を作曲した。
兄の中村二大(1921 - 生死不明)はクラリネット奏者。妹の夫は漫画家の寺田ヒロオ。
1941年末に太平洋戦争が始まると、翌1942年には早くも帝都は空襲に見舞われ始め、音楽留学を続けるのは不可能になり、1943年夏、青島へ引き揚げた。1945年には父母の郷里である久留米市へ一家で引き揚げ、そこで終戦を迎える[2]。再び大っぴらに音楽活動ができるようになった中村は、福岡県立中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)で音楽部を結成、熱心に活動に打ち込む。進駐軍とともに米国音楽が流れこんできた時代で、中村は自作の鉱石ラジオで進駐軍向けのラジオ放送を聴いたり、自宅近くの米軍のクラブで披露される演奏を漏れ聞くなど、米国音楽をむさぼるように聞いていた[3]。
1953年、中村、松本、ジョージ川口、小野満の4人で『ビッグ・フォア』を結成。前述の人気投票の各部門の1位のメンバーの顔合わせは若者から熱狂的に歓迎され、日本で初めて野球場での単独コンサートを開催、1954年12月には、文化放送でレギュラー番組『トリス・ジャズ・ゲーム』[注 1]を持つに至った。この番組には後にコンビを組む永六輔も放送作家として関わっており、曲のリクエストのコーナーでは一観客としてマイナーな曲のリクエストを連発して、メンバーを困らせたという[8]。
中村はジャズの世界では最後までトップクラスの人気であったが、ジャズが芸術性、前衛性を強めるとともに大衆性を失い、市場が縮小するという悪い流れが続いた。中村はジャズ復興を賭けて、自主リサイタルの開催を決意する。ジャズとクラシックの融合というテーマを掲げ、半年間は仕事をセーブ、リサイタルの準備に打ち込んだ。リサイタルのプログラムには、友人の三島由紀夫からメッセージが寄せられた[10]。しかし意欲が空回りしてイメージと現実の間にギャップが生じ、準備が遅れ始める。精神的に追い詰められた中村はついに薬物に手を出すが、進捗は好転しなかった。仕上げが遅れたことにより譜面の完成は更に遅れ、オーケストラの練習も不十分であった。1958年6月5日、産経ホールで開かれた『中村八大リサイタル』は、公演後の評価はそこそこであったが、芸術肌の中村にとっては無残な失敗であった。その結果、中村に残ったのはジャズの斜陽という現実と膨大な借金、薬物依存という苦境であった[11]。
渡辺は、丁度仕事をもらいに来た中村に映画の音楽担当を依頼した。中村は大喜びで引き受けたが、中村と面識がなかった東宝側の山本紫朗(1903年 - 1995年)(和田誠の伯父)から、オーディションとして翌日までに10曲楽曲を持ってくるよう求められた。それまでジャズ一筋でやってきた中村は作詞家との伝手はなく、思案に暮れているとたまたま永六輔とばったり出会った。永は放送作家一筋で作詞の経験は皆無だったが、中村の依頼に二つ返事で引き受けた。そのまま2人して中村の自宅へ向かい、朝までかかってそれぞれ10曲分の歌詞とメロディーを制作、そこから2人で原稿を突き合わせ、直しと並行して中村が編曲、写譜屋を3人呼んでオーケストラ用の譜面に書き起こすという突貫作業を一日中かかって行い、完成した10曲を持って中村が東宝撮影所へ直行、山本に楽譜を手渡した。山本に作品が認められて、中村は音楽監督に採用された[14]。
中村が担当した映画は『檻の中の野郎たち』と『青春を賭けろ』の2作で、作中には永と共作した作品も流された。中でも、水原弘が歌った『黒い花びら』では水原の歌声と中村の新奇なアレンジが受けてヒットする[15]。同曲は、同年に始まった第1回日本レコード大賞にノミネートされ、審査を勝ち抜き大賞に輝いた。
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享年61歳 、誕生日 1931年1月20日、命日 1992年6月10日
※ 中村さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
中村 八大(なかむら はちだい、1931年〈昭和6年〉1月20日 - 1992年〈平成4年〉6月10日)は、日本の作曲家、ジャズピアニスト。
『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、1950年代末から1960年代にかけての数々のヒット曲を作曲した。
兄の中村二大(1921 - 生死不明)はクラリネット奏者。妹の夫は漫画家の寺田ヒロオ。
経歴[編集]
音楽との出会い[編集]
1931年、青島にて誕生。父親は青島の日本人学校で校長を務めており、自宅にはピアノや蓄音機、レコードなどがあるという恵まれた音楽環境であった。音楽的素養を認めた父の勧めで1940年春、小学4年生に進級すると同時に日本へ単身留学、新宿の国民学校へ転校。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の附属児童学園に週2回通い、ピアノと作曲の英才教育を受ける。しかし、技術習得を重視するハードトレーニングの教育方針に疑問を抱き、学園でのレッスンをさぼって新宿、浅草などの劇場に足しげく通っていた[1]。1941年末に太平洋戦争が始まると、翌1942年には早くも帝都は空襲に見舞われ始め、音楽留学を続けるのは不可能になり、1943年夏、青島へ引き揚げた。1945年には父母の郷里である久留米市へ一家で引き揚げ、そこで終戦を迎える[2]。再び大っぴらに音楽活動ができるようになった中村は、福岡県立中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)で音楽部を結成、熱心に活動に打ち込む。進駐軍とともに米国音楽が流れこんできた時代で、中村は自作の鉱石ラジオで進駐軍向けのラジオ放送を聴いたり、自宅近くの米軍のクラブで披露される演奏を漏れ聞くなど、米国音楽をむさぼるように聞いていた[3]。
ジャズマン時代[編集]
1950年、早稲田大学へ入学。二大の紹介から渡辺晋の勧誘を受け、松本英彦、南廣、安藤八郎らとバンド『シックス・ジョーズ』を結成。1年後にはバンドの名は全国に知れ渡り、音楽雑誌『スイングジャーナル』の人気投票でバンドは部門2位、中村はピアニストとして1位を勝ち取った。しかし間もなく、ジャズの芸術性を追求しようとする中村と、あくまでジャズをエンターテインメントとして割り切り、ジャズメンの生活の安定を目指すマネジメント肌の渡辺との間で衝突が発生、中村は松本とともにシックス・ジョーズを脱退してしまう[7]。1953年、中村、松本、ジョージ川口、小野満の4人で『ビッグ・フォア』を結成。前述の人気投票の各部門の1位のメンバーの顔合わせは若者から熱狂的に歓迎され、日本で初めて野球場での単独コンサートを開催、1954年12月には、文化放送でレギュラー番組『トリス・ジャズ・ゲーム』[注 1]を持つに至った。この番組には後にコンビを組む永六輔も放送作家として関わっており、曲のリクエストのコーナーでは一観客としてマイナーな曲のリクエストを連発して、メンバーを困らせたという[8]。
中村はジャズの世界では最後までトップクラスの人気であったが、ジャズが芸術性、前衛性を強めるとともに大衆性を失い、市場が縮小するという悪い流れが続いた。中村はジャズ復興を賭けて、自主リサイタルの開催を決意する。ジャズとクラシックの融合というテーマを掲げ、半年間は仕事をセーブ、リサイタルの準備に打ち込んだ。リサイタルのプログラムには、友人の三島由紀夫からメッセージが寄せられた[10]。しかし意欲が空回りしてイメージと現実の間にギャップが生じ、準備が遅れ始める。精神的に追い詰められた中村はついに薬物に手を出すが、進捗は好転しなかった。仕上げが遅れたことにより譜面の完成は更に遅れ、オーケストラの練習も不十分であった。1958年6月5日、産経ホールで開かれた『中村八大リサイタル』は、公演後の評価はそこそこであったが、芸術肌の中村にとっては無残な失敗であった。その結果、中村に残ったのはジャズの斜陽という現実と膨大な借金、薬物依存という苦境であった[11]。
作曲家への転身、レコード大賞受賞[編集]
翌1959年2月、TBSラジオの芸術祭参加作品『琴と日本の打楽器のための組曲』を担当した時、締切当日になってスタジオで作曲作業を行っていた中村は、衝動的に自殺を思い立つが、自身の曲がスタジオから流れてきたのを耳にして思いとどまる。自宅へ戻ると直ちに薬物を廃棄、2週間家に閉じこもって禁断症状に耐えた。精神の平静を取り戻すと同時に自身の音楽への向き合い方を内省し、過去に音楽教室を抜けだして観たエンターテインメントや巡業への帯同で学んだ、「音楽は観客と遊離するべきものではない」という考えを自ら破っていたことを悟り、失敗に終わったリサイタルのような芸術性の空回りは、二度とするまいと誓った[12]。渡辺は、丁度仕事をもらいに来た中村に映画の音楽担当を依頼した。中村は大喜びで引き受けたが、中村と面識がなかった東宝側の山本紫朗(1903年 - 1995年)(和田誠の伯父)から、オーディションとして翌日までに10曲楽曲を持ってくるよう求められた。それまでジャズ一筋でやってきた中村は作詞家との伝手はなく、思案に暮れているとたまたま永六輔とばったり出会った。永は放送作家一筋で作詞の経験は皆無だったが、中村の依頼に二つ返事で引き受けた。そのまま2人して中村の自宅へ向かい、朝までかかってそれぞれ10曲分の歌詞とメロディーを制作、そこから2人で原稿を突き合わせ、直しと並行して中村が編曲、写譜屋を3人呼んでオーケストラ用の譜面に書き起こすという突貫作業を一日中かかって行い、完成した10曲を持って中村が東宝撮影所へ直行、山本に楽譜を手渡した。山本に作品が認められて、中村は音楽監督に採用された[14]。
中村が担当した映画は『檻の中の野郎たち』と『青春を賭けろ』の2作で、作中には永と共作した作品も流された。中でも、水原弘が歌った『黒い花びら』では水原の歌声と中村の新奇なアレンジが受けてヒットする[15]。同曲は、同年に始まった第1回日本レコード大賞にノミネートされ、審査を勝ち抜き大賞に輝いた。
主な作曲作品[編集]
※注:このサイトは、中村八大に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝