(生い立ち)
1913年5月4日(日曜日)、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)上之町に父・菅沼達吉と母・馬詰愛江の3人兄弟の末っ子として生まれる。祖父は江戸幕府の大目付・森泰次郎で、その実弟は儒学者の成島柳北である[7]。父の達吉は旧制第二高等学校教員、日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈取締役常務を歴任した実業家[7][9] で、母の愛江は大きな海産物問屋の娘であった。久彌という名前は、父が実業家の岩崎久彌(男爵・三菱財閥三代目総帥でエリザベス・サンダースホーム創設者澤田美喜の父)と深い親交を持っていたことに由来する。
2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。久彌は枚方尋常小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となる[7][10]。兵庫県西宮市鳴尾に移り住み[10][11]、小学校5年まで鳴尾小学校に在学。6年生の時に、教育熱心な母親により、旧制大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)への進学のために堂島小学校へ転校させられる[12]。堂島小卒業後、母親の念願通り北野中学に進学。
2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。久彌は枚方尋常小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となる[7][10]。兵庫県西宮市鳴尾に移り住み[10][11]、小学校5年まで鳴尾小学校に在学。6年生の時に、教育熱心な母親により、旧制大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)への進学のために堂島小学校へ転校させられる[12]。堂島小卒業後、母親の念願通り北野中学に進学。