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この想いでサイトは、天才浮世絵師 葛飾 北斎(画家)さんを偲んで作成されました。

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本名:葛飾 北斎(かつしか ほくさい)
戒名:南牕院奇譽北齋居士
墓地:葛飾北斎の墓 墓地:葛飾北斎の墓 (〒111-0041 東京都台東区元浅草4丁目6−6 誓教寺墓地内) 日本


江戸時代後期の浮世絵師化政文化を代表する一人。
代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した
若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも彼の卓越した描写力を見ることができる。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。

  • 安永7年(1778年) 浮世絵師・勝川春章の門下となる。狩野派唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。また黄表紙の挿絵なども描いた。この頃用いていた号は「春朗(しゅんろう)」であるが、これは師・春章とその別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつもらい受けたものである。
  • 安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビュー。
  • 寛政6年(1794年) 勝川派破門される。理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川[注釈 3]に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である。ただ融川以外にも、3代目堤等琳についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。
  • 寛政7年(1795年) 「北斎宗理」の号を用いる。
  • 寛政10年(1798年) 「宗理(そうり)」の号を門人琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」「可侯(かこう)」「辰政(ときまさ)」を用いる。
  • 享和2年(1802年) 狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始。
  • 文化2年(1805年) 「葛飾北斎」の号を用いる(正字については導入部を参照)。
  • 文化7年(1810年) 「戴斗(たいと)」の号を用いる。
  • 文化9年(1812年) 秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。
  • 文化11年(1814年) 『北斎漫画』(#)の初編を発刊
  • 文化14年(1817年) 春頃、名古屋に滞在。10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く。年末頃、大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行する。この時、春好斎北洲が大坂にて門人になったとされる。
  • 文政3年(1820年) 「為一(いいつ)」の号を用いる。『富嶽三十六景』(#)の初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結する。
  • 天保5年(1834年) 「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。『富嶽百景』(#)を手がける。
     改号すること30回
    ※ 90年の生涯で引っ越しは93回行った
    ※ 挿絵画家の一面もあり
    ※ 現存する北斎の作品は3万点を超える


家族[編集]葛飾北斎は生涯に2度結婚しており、それぞれの妻との間に一男二女を設けている(合わせると二男四女)[7]

  • 父:鏡師中島伊勢。
  • 母:吉良上野介の家臣・小林平八郎の孫娘。
  • 長女:お美与 - 北斎の門人の柳川重信と結婚するが離縁。早世。
  • 長男:富之助
  • 次女:お辰(またはお鉄) 早世。
  • 次男:多吉朗(崎十郎〈元服後〉) - 支配勘定、加瀬氏へ養子に出る。
  • 三女:お栄(葛飾応為) - 絵師南沢等明と結婚するが離縁、北斎の元で助手・浮世絵師として身を立てる。
  • 四女:お猶
  • 孫娘:白井多知女(加瀬崎十郎の娘)
  • 曾孫:白井孝義
奇行・その他[編集]

食事[編集]

食事は自分では作らず、買ってきたり貰っていたりしていた。居酒屋の隣に住んでいた時は、3食とも店から出前させていた。食器に移し替えることもせず、包装の竹皮や箱に入れたまま食べては、ゴミをそのまま放置していた。土瓶と茶碗2、3はもっていたが、自分で茶を入れず、一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れなかった。客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した[2]

ここまで乱れた食生活を送りながらも彼が長命だった理由として、彼がクワイを毎日食べていたから、と言う説がある。

斎藤月岑によれば、「この親子(北斎とお栄)は生魚をもらうと調理が面倒なため他者にあげてしまう」とのこと。

飲酒・喫煙[編集]

北斎はを飲まなかった。これを否定する意見として、「通常の名家、文人墨客で飲まないところはない。また大手の画家であり画工料は多い。にもかかわらず乱れた生活、不衛生な部屋、汚れた衣服を着ている、引っ越しが多いというのは往々にして酒飲みの典型である」というものがある[2]。しかし、明治に行われた周辺へのインタビューでは下戸であったというものばかりである。河鍋暁斎によれば「酒を飲まないばかりか、お茶でも上等の茶は嗜まないし、煙草も吸わない。殊に煙が嫌いで夏に蚊遣りも使わない」。別の証言では「酒は飲まないが、菓子を嗜む。訪問するとき大福餅7、8を持って行くと、大喜びし舌鼓を打った。」という[2]。 交流のあった柳亭種彦は「酒は嗜まないが茶を嗜む」という文を残している。

貧しい理由[編集]

北斎は金銭に無頓着であった。北斎の画工料は金一分と通常の倍を得ていたが、赤貧で衣服にも不自由していた。しかし金を貯える気は見られず、画工料が送られてきても包みを解かず数えもせず、机に放置しておいた。米屋、薪屋が請求にくると包みのまま投げつけて渡していた。店は意外な金額なら着服するし、少なければ催促するという有様であった。このようないい加減な金銭の扱いが貧しさの一因であったとされる[2]

挨拶[編集]

行儀作法を好まず、そっけない返事や態度をとっていた。人に会っても一礼もしたことがなく、ただ「こんにちは」「いや」とだけ答え、一般的な時候・健康について長話をしなかった[2]

外出の様子[編集]

衣服は絹類や流行の服を着たことが無かったという。雑な手織りの紺縞の木綿、柿色の袖無し半天に、六尺の天秤棒を杖にして、草鞋か麻裏の草履を履いていた。誰かから「田舎者だ」と言われるのを、ひそかに喜んでいたという。また、歩くときに常に呪文を唱えているので、知人に会っても気がつかないことがあった[注釈 8][2]

室内の様子[編集]

ある日、北斎が部屋の隅を筆で指し、娘を呼んで「昨日の晩までここに蜘蛛の巣があっただろう。どうして消えたんだ。お前知らないか?」としばらく気にし続けていたことがあった。

また訪問した人の証言では「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」という[8]
葛飾北斎の描いた江戸時代の仕事人が大集合! すみだ北斎美術館 ...

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