(生い立ち~青年期)
文化2年2月21日(1805年3月21日)、当時備中松山藩領だった備中国阿賀郡西方(現・岡山県高梁市中井町西方)で山田五郎吉・梶(西方氏)夫妻の間に長男として生まれる。幼名は阿璘(ありん)と呼ばれていた。
山田家は元は源氏を称する(後述)郷士の家であったが、方谷の曾祖父・宗左衛門が長男を勝手に出家させた寺の住職を殺害して自害するという事件を起こしたため[注釈 1]、財産没収の上で所払いとされた祖父・善太郎は新見藩領土橋(現・新見市土橋)に寄寓し、20年ほど後に許されて西方の地に戻って来た[3]。方谷が生まれたころは農業と菜種油の製造・販売を家業として生計をたてていた。
お家再興を願う両親は方谷に学問で世に出てもらおうと考え、彼が乳飲み子の頃から字を教え始めた。方谷は3歳で漢字を覚えたといわれ、生家近くの木山神社には4歳のときに奉納したという扁額が残っている[4]。
方谷は5歳になると実家から20km離れた新見藩領にある親戚の寺に預けられ、藩儒・丸川松隠の回陽塾で学び始める。ここでも神童と評判を呼び、6歳のときに藩主・関長輝の御前で書を披露した、9歳のときには学問に励む目的を問われ「治国平天下」と答えたなどの逸話が残っている[5]。
山田家は元は源氏を称する(後述)郷士の家であったが、方谷の曾祖父・宗左衛門が長男を勝手に出家させた寺の住職を殺害して自害するという事件を起こしたため[注釈 1]、財産没収の上で所払いとされた祖父・善太郎は新見藩領土橋(現・新見市土橋)に寄寓し、20年ほど後に許されて西方の地に戻って来た[3]。方谷が生まれたころは農業と菜種油の製造・販売を家業として生計をたてていた。
お家再興を願う両親は方谷に学問で世に出てもらおうと考え、彼が乳飲み子の頃から字を教え始めた。方谷は3歳で漢字を覚えたといわれ、生家近くの木山神社には4歳のときに奉納したという扁額が残っている[4]。
方谷は5歳になると実家から20km離れた新見藩領にある親戚の寺に預けられ、藩儒・丸川松隠の回陽塾で学び始める。ここでも神童と評判を呼び、6歳のときに藩主・関長輝の御前で書を披露した、9歳のときには学問に励む目的を問われ「治国平天下」と答えたなどの逸話が残っている[5]。