承継
軌跡

石原慎太郎

  • ユニークな発言や提言 石原氏は、政治家としても作家としても、ユニークな発言や提言が多く印象的な政治家です。例えば、温暖化対策として「エアコンを止めろ」という提言や、「(女性の)不倫は悪いが、男がやらないでいるのも情けない」という発言などが有名です。
  • 犬好き 石原氏は、犬好きで知られ、自宅には数匹の犬を飼っていたことが報じられています。また、都知事在任中には、犬を利用した犯罪抑止策として、警察犬の導入を進めたこともあります。

    石原慎太郎氏は、「新銀行東京」の失敗、しかし「残した印象は不思議に鮮烈」と、昭和の世相の波に乗り続けた石原の姿は、戦後日本の姿そのものだったのかもしれないと言われます

石原裕次郎

昭和の映画スターと呼ばれる石原裕次郎の映画界入りのきっかけは、兄・慎太郎の芥川賞受賞作 "太陽の季節 "の映画化であった。時代を先取りした青年のリアルな姿が多くの人の圧倒的な支持を集め、裕次郎ブームを巻き起こした。その後、俳優としてだけでなく、プロデューサーの立場から映画製作に携わり、石原プロダクションとして、既存の映画会社では作れないような名作を数多く世に送り出しました。

生い立ち(裕次郎)

父・石原清(山下汽船社員、愛媛県出身)、母・光子(広島県宮島出身)の間に、兵庫県神戸市須磨区で生まれる。北海道小樽市と神奈川県逗子市で育つ。小樽のマリア幼稚園(現小樽富士幼稚園)を卒業し、小樽の稲穂国民学校時代に競泳とスキー(天狗山)に親しむ。逗子中学から慶應義塾農業高校、慶應義塾高校では趣味のバスケットボールに打ち込んだが、慶應義塾高校2年の時に膝を痛め、その夢を断念せざるを得なくなった。1951年に慶應義塾大学法学部政治学科に入学するが、自ら『太陽の季節』に描かれたような放蕩三昧の日々を送った。

俳優・歌手(裕次郎)

石原裕次郎は、1956年にデビューした日本の俳優である。東宝、大映、日活のオーディションを受けたが、3社とも不合格となった。デビューについては諸説あるが、プロデューサーの水江滝子の推薦により、弟の慎太郎とともに映画『太陽の季節』の端役で映画デビューを果たした。日活に入社する前、兄・慎太郎の強い推薦で大映の『処刑室』に主演し、大映に入社するチャンスもあったが、慎太郎に断られ、日活と契約する。1956年には兄・慎太郎の小説を原作とした『狂った果実』が公開され、その後『太陽の季節』(慎太郎の小説をさらに映画化)が公開される。この頃、歌手としてもデビューしている。

映画・テレビ制作(裕次郎)

1963年、石原プロモーションを設立。1968年、三船敏郎主演の映画「黒部の太陽」を製作し、大ヒットさせる。1971年、結核を患い、療養生活を送ることになる。1972年、友人の増田俊男の勧めで、東宝と日本テレビの粘り強い交渉の末、テレビドラマ「太陽にほえろ!」に出演するようになった。妻・竜雷太らの説得で予定通り13回で降板、1986年まで出演し、高視聴率を記録した。1973年、石原プロダクション制作の映画「反逆の報酬」に主演、その後「凍える川」の助演、「アルカディアのわが青春」の声の出演をする。これが最後の主演作であり、本格的な映画出演もこれが最後となった。76年以降は「大都会シリーズ」、79年以降は「西部警察シリーズ」の企画・脇役として多面的な活躍を続けた。
後番組で、アドリブで7分間にわたり「命の大切さ」を語るパフォーマンスを行ったが、これが俳優としての最後の出演であり、番組への出演もこれが最後となった。

闘病・死去(裕次郎)

1987年4月20日、ハワイから帰国した彼は体調を崩し、慶応義塾大学病院に入院した。肝性脳症の症状であった。しかし、酸素吸入により心臓が動き出し、7月17日15時43分、医師から死亡が告げられた。
彼の死後、2曲の曲が発表された。"北の旅人 "と "わが人生に悔いなし "である。前者は125万枚を売り上げるヒット曲となった。1991年、石原裕次郎がヨットマンとして幼少期を過ごした小樽港マリーナの隣に「石原裕次郎記念館」がオープン。その後、来館者の減少や施設の老朽化により、23年間にわたり開館していたが、閉館することとなった。その代替として、今年の運行終了後の8月22日から2年間、全国8カ所を巡回して石原裕次郎ゆかりの品を展示する「石原裕次郎の足跡」展が開催されることになった。