生涯
- 貧乏な暮らし
結婚してからも貧乏な生活が続きます。
正月に親戚にもらった餅を持って帰る途中、両国橋で風呂敷が破れてしまいます。暗い夜道を、餅を探すものの、大人になっても自立できていない惨めさを感じて、結局、拾った餅を川に投げ込んでしまいます。
- 咸臨丸(かんりんまる)でアメリカへ
それが幕府の目に留まり、31歳で目付海防掛に取り立てられます。 翌年には、長崎の海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)の生徒として勉強を始めます。1860年、37歳のときに、初の太平洋横断となる咸臨丸の艦長として、サンフランシスコに西郷との信頼関係
- 西郷隆盛との関係
維新後も明治政府の要職に就き、元老院議官(げんろういんぎかん)や枢密顧問官(すうみつこもんかん)を歴任します。
西郷への信頼は厚く、西南戦争で西郷が亡くなった後、勝は西郷の名誉回復に努めました。そのかいあって、西郷の名誉は回復され、上野公園の銅像設置に至るのです。
勝は「外交の極意(ごくい)は誠心誠意にある」をモットーにしていました。
外交でごまかしは通用しない、真心で相手にぶつかるべきである、という姿勢です。向かいます。