主な作品
音楽シングル[編集]#発売日A/B面タイトル作詞作曲編曲オリコン
- 最高順位規格品番RCA/日本ビクター→ビクター音楽産業→RVC11969年
- 9月25日A面新宿の女石坂まさを
- みずの稔石坂まさを小谷充9位JRT-1037B面生命ぎりぎり石坂まさを池田孝21970年
- 2月5日A面女のブルース石坂まさを猪俣公章成田征英1位JRT-1057B面あなた任せのブルース森川登池田孝31970年
- 4月25日A面圭子の夢は夜ひらく曽根幸明原田良一1位JRT-1077B面東京流れもの不詳41970年
- 7月25日A面命預けます石坂まさを曽根幸明3位JRT-1097B面ネオン街の女池田孝51970年
- 10月25日A面女は恋に生きてゆく7位JRT-1117B面盛り場数え唄石坂まさを中村泰士原田良一61971年
- 2月5日A面さいはての女彩木雅夫池田孝8位JRT-1137B面東京花ものがたり石坂まさを71971年
- 5月5日A面恋仁義石坂まさを曽根幸明21位JRT-1167B面涙ひとしずく野々卓也池田孝81971年
- 6月5日A面みちのく小唄23位JRT-5B面会津磐梯山不詳91971年
- 7月5日A面愛の巡礼浅木しゅん石坂まさを高田弘44位JRT-1177B面圭子の三度笠石坂まさを池田孝101971年
- 10月25日A面知らない町で石坂まさを曽根幸明46位JRT-1197B面圭子の網走番外地不詳池田孝111972年
- 1月25日A面京都から博多まで阿久悠猪俣公章20位JRT-1207B面街の子竹村次郎121972年
- 5月25日A面別れの旅池田孝14位JRT-1237B面哀別石坂まさを中村泰士馬飼野俊一131972年
- 9月25日A面花は流れて鈴木邦彦池田孝19位JRT-1257B面遊侠の人141972年
- 12月5日A面悲しみの町浜圭介竜崎孝路JRT-1267B面白い坂道が見える窓野々卓也151973年
- 3月25日A面明日から私は山上路夫鈴木邦彦21位JRT-1277B面別れ道石坂まさを161973年
- 7月25日A面花小唄野々卓也池多孝春JRT-18B面新東京小唄神坂薫171973年
- 8月25日A面遍歴石坂まさを曽根幸明50位JRT-1297B面愛の孤独たつみりょう馬飼野俊一181973年
- 11月5日A面恋の雪割草山口洋子猪俣公章竹村次郎41位JRT-1327B面御用牙石坂まさを曽根幸明191974年
- 4月5日A面京都ブルースなかにし礼馬飼野康二JRT-1337B面女の人生201974年
- 6月5日A面火の国小唄石坂まさを野々卓也池多孝春JRT-21B面萩の女はぞのなな森山慎也竜崎孝路211974年
- 7月5日A面私は京都へ帰ります山口洋子猪俣公章池多孝春JRT-1357B面雨の仙台石坂まさをたつみりょう馬飼野俊一221974年
- 9月5日A面命火石坂まさを小杉仁三34位JRT-1377B面夜のブルース原田良一231975年
- 1月25日A面あなたの噂山口洋子猪俣公章竹村次郎JRT-1397B面銀座のお恵ちゃん石坂まさを三条ひろし長作幸男241975年
- 4月25日A面生きてるだけの女浜岡幸賀川幸生小山恭弘JRT-1417B面さすらい花石坂まさを岡千秋小谷充251975年
- 9月25日A面さすらいよしかわかおり遠藤実斉藤恒夫JRT-1447B面風子二十四不幸せ島田幸一261975年
- 11月5日A面はしご酒はぞのなな赤坂通小山恭弘43位JRT-1457B面裏町流し唄石坂まさを岡千秋佐藤まさと271976年
- 4月25日A面女だから小谷夏中村泰士馬飼野俊一RVS-1007B面あなたはもう他人281976年
- 8月25日A面聞いて下さい私の人生六本木哲池多孝春RVS-1027B面薄化粧石坂まさを若林いさむ竜崎孝路291977年
- 2月5日A面哀愁酒場平尾昌晃竜崎孝路RVS-1047B面あなたへの未練山田孝雄301977年
- 6月25日A面貴方ひとすじ石坂まさを若林いさむ池多孝春RVS-1077B面新宿エレジー上條たけし311977年
- 11月5日A面面影平野阿木燿子宇崎竜童馬飼野俊一RVS-1107B面圭子のドンデン節321978年
- 5月A面銀座流れ唄大村雅朗RVS-1127B面猫と女331978年
- 10月A面酔い酔い酒場小山恭弘RVS-1148B面女文字341979年
- 3月A面北の港町遠藤実斉藤恒夫RVS-1167B面わくらばの宿一条貴之岡千秋池多孝春351979年
- 9月21日A面可愛い女中山大三郎船村徹栗田俊夫RVS-1197B面赤ちょうちんブルースCBS・ソニー361981年
- 10月1日A面螢火[注 4]阿木燿子三島大輔若草恵07SH-1057B面恋狂い一文字まこと森川範一ロリーポップ371984年
- 7月A面あいつが悪い[注 5]伊藤アキラ浜圭介桜庭伸幸a-15267B面(カラオケ)-リバスター381984年
- 10月A面蝶よ花よと鳥井実西谷翔池多孝春7RC-0037B面酒の駅荒川利夫立木達也南郷達也ポリドール391986年
- 6月25日A面東京迷路[注 6]浅木しゅん杉本真人松井忠重7DX-1436B面(カラオケ)-401987年
- 2月25日A面新宿挽歌なかにし礼船村徹丸山雅仁7DX-1471B面北国流れ旅八坂こうじ武田芳美斉藤恒夫411988年
- 3月25日A面旅路星野哲郎北原じゅん馬場良7DX-1547B面群馬慕色421989年
- 2月25日A面新地の雨[注 7]桂三枝美波有桜庭伸幸7DX-1591 (EP)
- H10P-40012 (CD)B面浪花の女藤田まさたかセンチュリーレコード431994年
- 4月21日01酒に酔うほどRa U[注 8]Ra U
- Sking U平岩嘉信CEDC-1039002婚約解消Ra U日本クラウン441996年
- 8月21日01天国荒木とよひさ三木たかし若草恵CRDN-34102献身451996年
- 9月25日01冷たい月[注 9]Ra U & Sking U宮川彬良CRDN-34702ゴールデン・エラ[注 10]461996年
- 10月23日01千年のかがり火曲保曽根幸明CRDN-201102MY FRIENDS471997年
- 10月22日01男と女Ra URa U
- Sking UComo-LeeCRDN-51102抱いて…スバック482014年
- 2月13日01母子舟[注 11]石坂まさを平尾昌晃竜崎孝路SVCA-24102恋して母は
- 盛り場流し唄 新宿の女(1970年、日活)
- ずべ公番長 夢は夜ひらく(1970年、東映)
- 涙の流し唄 命預けます(1970年、松竹)
- 女子学園 ヤバい卒業(1970年、日活)
- 藤圭子 わが歌のある限り(1971年、松竹)
- 身毒丸 (舞台作品)(1995年) - 劇中歌「藁人形」「エピローグ」を歌唱
生い立ち
来歴[編集]浪曲師の父・松平国二郎こと阿部壮(つよし)[5]、同じく浪曲師であり曲師でもある母・阿部澄子こと竹山澄子(2010年に死去。享年80)[5]との間に3人きょうだい末子・阿部純子として父の出身地でもある岩手県一関市にて巡業中に生誕する。
一家は純子が生まれてまもなく母親の実家のある北海道名寄市へ渡道し、道内・東北を中心に祭り・炭鉱・寺の御堂・旧家大広間などを旅回りの巡業をしながら細々と生計を立てていた。仕事のないときは、長女富美恵に乳飲み子の純子を背負わせ、澄子は三味線を抱え、国二郎は長男・博(のちの歌手・藤三郎)の手を引き風呂敷包みを背負いながら一軒一軒農家を廻り営業した。純子3歳の時に姉の小学校入学から旭川市に定住。
一家の生活は赤貧洗うが如し厳しきもので、純子が幼い頃は市内の忠別橋上流の通称サムライ部落で雨風を凌いで暮らした。純子が幼い頃澄子は下駄で忠別川の氷を割って、おしめを洗っていたとの証言もある。
一家は純子が生まれてまもなく母親の実家のある北海道名寄市へ渡道し、道内・東北を中心に祭り・炭鉱・寺の御堂・旧家大広間などを旅回りの巡業をしながら細々と生計を立てていた。仕事のないときは、長女富美恵に乳飲み子の純子を背負わせ、澄子は三味線を抱え、国二郎は長男・博(のちの歌手・藤三郎)の手を引き風呂敷包みを背負いながら一軒一軒農家を廻り営業した。純子3歳の時に姉の小学校入学から旭川市に定住。
一家の生活は赤貧洗うが如し厳しきもので、純子が幼い頃は市内の忠別橋上流の通称サムライ部落で雨風を凌いで暮らした。純子が幼い頃澄子は下駄で忠別川の氷を割って、おしめを洗っていたとの証言もある。
幼少期から歌う
- 小学校に入った後も転校を繰り返し、純子が4年生の頃旭川市立大有小学校に転入した当時の担任は「在学証明書を一度に4~5枚も重ねて提出してきたことにまず驚かされた」と語る。旭川市旭町にあった住まいは、畳もなく、床が剥き出しで、裸電球一つぶら下がる部屋であった。両親が巡業から戻るのが遅くなり食費に困った幼い兄弟は納豆や豆腐を売り歩き日銭を稼ぐこともあったという。小学校5年になり客前で初めて歌った(畠山みどり「出世街道」)ところ大反響を得、その後学校の休みの日に両親の巡業に同行(中学3年夏の岩見沢への転居まで続ける)。結果一家の収入も増え神居に小さな家を持ち5年生の夏、旭川市立神居小学校に転校。旭川市立神居中学校3年の夏まで過ごす。岩見沢の温泉施設「きらく園」で住み込みの専属の歌手として請われ両親と共に岩見沢へ転居。
- 生活のために錦糸町や浅草などで母と流しをする。その後、作詞家の澤ノ井龍二(石坂まさを)と知り合う。石坂まさをは純子の歌う「星の流れに」「カスバの女」を聴きドスの効いた声と人生の哀愁をにじませた退廃的な歌い方に圧倒されスカウト。石坂まさをの自宅に住み込み弟子となりレッスンを受ける[7]。石坂まさをからRCAレコードの当時のディレクター榎本襄(現・音楽プロデューサー)を紹介。純子の歌う「星の流れに」「カスバの女」を聴いた榎本襄も同じく圧倒され他社からデビューが決まっていたところを断り自社からのデビューを強く勧めた。石坂まさをは東芝専属作詞家を辞し「藤プロ」という個人事務所としてスタート。三人でデビュー曲を練り、1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。
- 以後、石坂まさをと組んでヒット曲を連発。オリコンチャートで、ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。なお、内山田洋とクール・ファイブとの共作「演歌の競演 清と圭子」も含めると計42週連続1位となる。シングルにおいても「女のブルース」は8週連続1位、続く「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録し、18週連続1位という同一歌手での連続記録を残す。