この想いでサイトは、私たちの愛する人 高倉 健(映画俳優・歌手)さんを記念して作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:高倉 健(たかくら けん)
墓地:光明寺(神奈川県鎌倉市)、日本
日本の俳優・歌手。本名は小田 剛一(おだ ごういち)だが晩年は親族に剛一郎(ごういちろう)と名乗った[2]。高倉プロモーション所属。
福岡県中間市出身[3]。1998年に紫綬褒章、2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。
生涯[編集]俳優になるまで[編集]1931年2月16日(月曜日)、筑豊炭田にある福岡県中間市[2] の裕福な一家に生まれる。4人きょうだいの次男で、上2人は息子、下2人が娘であった[2]。父は旧日本海軍の軍人で、戦艦「比叡」乗り組みなどを経て[2] 炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[4]。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。太平洋戦争の終戦を迎えた中学生の時、アメリカ合衆国の文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った[4]。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった[4]。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた[4]。旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。
1955年に大学時代の知人のつてで、当時、美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ[5]、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。マキノ雅弘は「高倉は山本麟一と同じ、高倉の明大の先輩で東映のプロデューサーだった光川仁朗の口利きで東映入りした」と話している[6]。同期には今井健二、丘さとみ、岡田敏子、五味龍太郎らがいた。高倉は東映に入社してしばらくの間[7][8]、東日貿易の社長・久保正雄の家に居候した[7][8]。高倉にとって久保は親代わりともいうべき人で[7][8]、長嶋茂雄らとの付き合いも久保を通じてのもの[7][8][9][10]。長嶋の長男である一茂の名付け親とされる[11]。久保はインドネシアの戦後補償を巡り[12][13]、伊藤忠商事の瀬島龍三とタッグを組み[8]、デヴィ・スカルノを使って[8][13][14]、池田勇人首相とスカルノインドネシア大統領を繋いだ政商[8][10][14] であった。
1963年の『人生劇場 飛車角』で、高倉は準主役で出演[16][19][22][23][24]。高倉は本作で任侠映画スターとしての足掛かりをつかむが[25][26]、1964年の『日本侠客伝』では降板した中村錦之助に代わり、高倉は主役となる[19][27][28][29][30]。高倉の寡黙な立ち姿と眼力が東映任侠路線でその威力を発揮した[19][25][31][32]。スターであることを宿命づけられた高倉は以降、無口で禁欲的で任侠道を貫く男という像を壊さぬよう真の映画スターとしての生き方を貫いた[33]。自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。
これ以降、仁侠映画を中心に活躍[34][35][36]。耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した[37]。1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる[34][35][37][38][39][40]。
『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ[41]、1966年には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットし、今も、カラオケなどで歌い継がれている[注釈 2]。
70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、言い訳をせずに筋を通し、ついには復讐を果たす」という高倉演じる主人公は、サラリーマンや学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にまでファンが溢れ、立ち見が出たほどであった。他のスターとは一線を画した印象を示したことが、大ヒットシリーズ連発の一因であったが[34]、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている[注釈 3]。当時の風貌は、劇画『ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという[注釈 4]。
フリー転向後、同年の映画『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ / 大映)にて主演。10年以上、出演し続けた仁侠映画のイメージから脱却した。1977年には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の2作品に主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演し、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。これと前後してアメリカ映画や中国映画などの海外作品にも出演しており、1998年には紫綬褒章を受章した。一方でテレビドラマへの出演は1977年の初主演作『あにき』をはじめ、5作品である[57]。その出演理由も「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMにも数多く出演しているが、富士通のパソコンFMVのCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦役で共演、コミカルな演技を見せた。1989年7月に母親が死去するが、『あ・うん』の撮影中だった高倉は、スタッフの葬儀参加のすすめを断り、そのまま映画撮影に参加し続けた。
何度でも観たい‼ 高倉健 主演名作選
〇幸福の黄色いハンカチ 〇駅 STATION
〇鉄道員 〇遥かなる山の呼び声
〇君よ憤怒の河を渉れ 〇野性の証明
〇網走番外地シリーズ 〇昭和残侠伝シリーズ
〇南極物語 〇あなたへ
〇八甲田山 〇夜叉
〇冬の華 〇ゴルゴ13
〇四十七人の刺客 〇あ・うん
〇日本侠客伝シリーズ 〇海峡
〇動乱 〇新幹線大爆破 etc.
ディスコグラフィ[編集]シングル[編集]
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本名:高倉 健(たかくら けん)
墓地:光明寺(神奈川県鎌倉市)、日本
日本の俳優・歌手。本名は小田 剛一(おだ ごういち)だが晩年は親族に剛一郎(ごういちろう)と名乗った[2]。高倉プロモーション所属。
福岡県中間市出身[3]。1998年に紫綬褒章、2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。
生涯[編集]俳優になるまで[編集]1931年2月16日(月曜日)、筑豊炭田にある福岡県中間市[2] の裕福な一家に生まれる。4人きょうだいの次男で、上2人は息子、下2人が娘であった[2]。父は旧日本海軍の軍人で、戦艦「比叡」乗り組みなどを経て[2] 炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[4]。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。太平洋戦争の終戦を迎えた中学生の時、アメリカ合衆国の文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った[4]。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった[4]。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた[4]。旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。
1955年に大学時代の知人のつてで、当時、美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ[5]、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。マキノ雅弘は「高倉は山本麟一と同じ、高倉の明大の先輩で東映のプロデューサーだった光川仁朗の口利きで東映入りした」と話している[6]。同期には今井健二、丘さとみ、岡田敏子、五味龍太郎らがいた。高倉は東映に入社してしばらくの間[7][8]、東日貿易の社長・久保正雄の家に居候した[7][8]。高倉にとって久保は親代わりともいうべき人で[7][8]、長嶋茂雄らとの付き合いも久保を通じてのもの[7][8][9][10]。長嶋の長男である一茂の名付け親とされる[11]。久保はインドネシアの戦後補償を巡り[12][13]、伊藤忠商事の瀬島龍三とタッグを組み[8]、デヴィ・スカルノを使って[8][13][14]、池田勇人首相とスカルノインドネシア大統領を繋いだ政商[8][10][14] であった。
1963年の『人生劇場 飛車角』で、高倉は準主役で出演[16][19][22][23][24]。高倉は本作で任侠映画スターとしての足掛かりをつかむが[25][26]、1964年の『日本侠客伝』では降板した中村錦之助に代わり、高倉は主役となる[19][27][28][29][30]。高倉の寡黙な立ち姿と眼力が東映任侠路線でその威力を発揮した[19][25][31][32]。スターであることを宿命づけられた高倉は以降、無口で禁欲的で任侠道を貫く男という像を壊さぬよう真の映画スターとしての生き方を貫いた[33]。自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。
これ以降、仁侠映画を中心に活躍[34][35][36]。耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した[37]。1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる[34][35][37][38][39][40]。
『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ[41]、1966年には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットし、今も、カラオケなどで歌い継がれている[注釈 2]。
70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、言い訳をせずに筋を通し、ついには復讐を果たす」という高倉演じる主人公は、サラリーマンや学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にまでファンが溢れ、立ち見が出たほどであった。他のスターとは一線を画した印象を示したことが、大ヒットシリーズ連発の一因であったが[34]、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている[注釈 3]。当時の風貌は、劇画『ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという[注釈 4]。
フリー転向後、同年の映画『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ / 大映)にて主演。10年以上、出演し続けた仁侠映画のイメージから脱却した。1977年には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の2作品に主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演し、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。これと前後してアメリカ映画や中国映画などの海外作品にも出演しており、1998年には紫綬褒章を受章した。一方でテレビドラマへの出演は1977年の初主演作『あにき』をはじめ、5作品である[57]。その出演理由も「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMにも数多く出演しているが、富士通のパソコンFMVのCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦役で共演、コミカルな演技を見せた。1989年7月に母親が死去するが、『あ・うん』の撮影中だった高倉は、スタッフの葬儀参加のすすめを断り、そのまま映画撮影に参加し続けた。
何度でも観たい‼ 高倉健 主演名作選
〇幸福の黄色いハンカチ 〇駅 STATION
〇鉄道員 〇遥かなる山の呼び声
〇君よ憤怒の河を渉れ 〇野性の証明
〇網走番外地シリーズ 〇昭和残侠伝シリーズ
〇南極物語 〇あなたへ
〇八甲田山 〇夜叉
〇冬の華 〇ゴルゴ13
〇四十七人の刺客 〇あ・うん
〇日本侠客伝シリーズ 〇海峡
〇動乱 〇新幹線大爆破 etc.
ディスコグラフィ[編集]シングル[編集]
- その灯を消すな (1958年8月)[181]
- 野暮は言うなよ (1959年)
- 愛のブルース (1959年) ※作詞と作曲は江利チエミ
- 網走番外地 (1965年)
- 男の裏町 (1965年)
- 横顔 (1965年) ※B面「男の裏町」
- 男涙の雨が降る (1965年) ※B面「唐獅子牡丹」
- 男の誓い (1965年)
- 唐獅子牡丹 (1966年)
- 霧の波止場 (1966年)
- 男なら / 泣かせるぜ (1966年)
- 男ごころ (1968年)
- 望郷子守唄 (1971年) ※日本コロムビアの洋楽規格「L盤」としてリリース
- はぐれ旅 (1975年)
- 朝顔の詩 (1976年)
- 男の忘れもの (1979年)
- 日本海 (1979年)
- 時代おくれの酒場 (1983年、キャニオン、7A0339) - 東宝映画「居酒屋兆治」主題歌。B面「幸せという奴は」(詩 朗読)
- 挽歌 (1990年) ※八代亜紀とデュエット。1991年に三菱ふそう・ファイターのCMで流された。
- あの人に似ている (1994年) 裕木奈江とデュエット。作詞と作曲はさだまさしと中島みゆき
- 約束 (1995年)
- 旅人 (1996年)
- 南極のペンギン 曲:宇崎竜童、集英社 ※CD
- ※注:このサイトは、高倉健に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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