この想いでサイトは、私たちの愛する人 原 健三郎(衆議院議員・議長・大臣)さんを記念して作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
日本の政治家。位階は従二位。勲等は勲一等旭日桐花大綬章。
衆議院議員(20期)、衆議院議長(第65代)、衆議院副議長(第43代)を務め、また国務大臣としては労働大臣(第29代・第31代)、国土庁長官(第9代)、北海道開発庁長官(第43代)を歴任。
来歴[編集]1907年2月6日、兵庫県津名郡浅野村(現在は北淡町を経て淡路市)に生まれる。旧制兵庫県立洲本中学校を経て1925年、早稲田大学政治経済学部政治学科入学。このころから政治を志し、地元の県議会議員の選挙活動を手伝ったり、代議士の自宅を尋ねたりした[1]。1931年に早大卒業後アメリカ合衆国に渡航し、1935年5月、オレゴン大学大学院政治学研究科修士課程を修了[1]。
ヨーロッパ滞在[1]を経て帰国後、講談社に入社。雑誌『現代』[1]の編集者・編集長を務めたのち、1942年4月に予定されていた第21回衆議院議員総選挙への立候補を一旦届け出たが、洋行の前歴を問題視され、翼賛政治体制協議会の推薦が受けられなかったため断念している[1]。終戦後の1946年4月、大選挙区制で行われた第22回衆議院議員総選挙において兵庫1区から立候補し、初当選した[2]。
政界入り当初は、日本進歩党を経て民主党に所属したが、炭鉱国家管理問題での日本国政府の対応に反発して幣原喜重郎、田中角栄、佐々木秀世らと共に離党し、吉田茂率いる民主自由党に参加した。保守合同にともなって、自由民主党に所属。党内派閥の大野伴睦派、後身の船田中派に属し、船田の死後は中曽根康弘派に参加。
自民党内では広報委員長、国民運動本部長など、衆議院内では運輸委員長、逓信委員長、ロッキード問題調査特別委員長などを歴任した。原の議員在職期間の大半は、総選挙の制度が中選挙区制を採っていた期間と重なり、その間すべての選挙で兵庫2区を地盤とした。
1959年から1961年にかけて、日活製作・配給、児井英生企画作品の製作に関わり、脚本家あるいは原作執筆者として、15作の映画にクレジットされた[3](⇒ #フィルモグラフィ節にて後述)。
議員在職50年を超え、1996年には尾崎行雄・三木武夫に続いて、史上3人目の名誉議員称号資格者となったが、尾崎や三木のように、国会議事堂内に胸像を建てるという前例について、財政難により各党の合意がとれず、称号贈呈および胸像建立の是非は棚上げとなった。
政策[編集]
原健三郎=命懸けた「明石海峡大橋」
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日本の政治家。位階は従二位。勲等は勲一等旭日桐花大綬章。
衆議院議員(20期)、衆議院議長(第65代)、衆議院副議長(第43代)を務め、また国務大臣としては労働大臣(第29代・第31代)、国土庁長官(第9代)、北海道開発庁長官(第43代)を歴任。
来歴[編集]1907年2月6日、兵庫県津名郡浅野村(現在は北淡町を経て淡路市)に生まれる。旧制兵庫県立洲本中学校を経て1925年、早稲田大学政治経済学部政治学科入学。このころから政治を志し、地元の県議会議員の選挙活動を手伝ったり、代議士の自宅を尋ねたりした[1]。1931年に早大卒業後アメリカ合衆国に渡航し、1935年5月、オレゴン大学大学院政治学研究科修士課程を修了[1]。
ヨーロッパ滞在[1]を経て帰国後、講談社に入社。雑誌『現代』[1]の編集者・編集長を務めたのち、1942年4月に予定されていた第21回衆議院議員総選挙への立候補を一旦届け出たが、洋行の前歴を問題視され、翼賛政治体制協議会の推薦が受けられなかったため断念している[1]。終戦後の1946年4月、大選挙区制で行われた第22回衆議院議員総選挙において兵庫1区から立候補し、初当選した[2]。
政界入り当初は、日本進歩党を経て民主党に所属したが、炭鉱国家管理問題での日本国政府の対応に反発して幣原喜重郎、田中角栄、佐々木秀世らと共に離党し、吉田茂率いる民主自由党に参加した。保守合同にともなって、自由民主党に所属。党内派閥の大野伴睦派、後身の船田中派に属し、船田の死後は中曽根康弘派に参加。
自民党内では広報委員長、国民運動本部長など、衆議院内では運輸委員長、逓信委員長、ロッキード問題調査特別委員長などを歴任した。原の議員在職期間の大半は、総選挙の制度が中選挙区制を採っていた期間と重なり、その間すべての選挙で兵庫2区を地盤とした。
1959年から1961年にかけて、日活製作・配給、児井英生企画作品の製作に関わり、脚本家あるいは原作執筆者として、15作の映画にクレジットされた[3](⇒ #フィルモグラフィ節にて後述)。
議員在職50年を超え、1996年には尾崎行雄・三木武夫に続いて、史上3人目の名誉議員称号資格者となったが、尾崎や三木のように、国会議事堂内に胸像を建てるという前例について、財政難により各党の合意がとれず、称号贈呈および胸像建立の是非は棚上げとなった。
政策[編集]
- 初出馬時から、明石海峡大橋の建設を提唱した(※架橋構想自体は明治時代から存在し、原のオリジナルではない)。原自身の豪放なキャラクターによる演説は夢物語ととらえられ、ハラケンをもじって「ハシケン」「ホラケン[1]」などと揶揄されたが、1986年に着工が実現した。着工後も、演説で「ハラケン落とせば、橋落ちる[1]」のフレーズを用いるなど、自身の実績をアピールした。淡路市の大橋のふもとにある公園・あわじ花さじき付近に原の功績をたたえる銅像が建てられている。
- 労働大臣在任中に、当時は異例とされていた官公庁の週休二日制をはじめて提唱した。
- ギターを持った渡り鳥 - 監督:斎藤武市、原作:小川英、共同脚本:山崎巌
- 無言の乱斗 - 監督:西河克己、脚本:山崎巌・西河克己
- 海から来た流れ者 - 監督:山崎徳次郎、脚本:大川久男・山崎巌
- 六三制愚連隊 - 監督:西河克己、脚本:山崎巌・西河克己
- 渡り鳥いつまた帰る - 監督:斎藤武市、脚本:山崎巌・大川久男
- 海を渡る波止場の風 - 監督:山崎徳次郎、脚本:山崎巌・大川久男
- 俺は銀座の騎兵隊 - 監督:野口博志、脚本:山崎巌
- 赤い夕陽の渡り鳥 - 監督:斎藤武市、脚本:山崎巌・大川久男
- 若い突風 - 監督:西河克己、脚本:山崎巌・西河克己
- 南海の狼火(なんかいののろし) - 監督:山崎徳次郎、脚本:山崎巌
- 英雄候補生 - : 監督牛原陽一、脚本:山崎巌
- 大草原の渡り鳥 - 監督斎藤武市、脚本:山崎巌
- 大暴れ風来坊 - 監督:山崎徳次郎、脚本:中久保信成・市川佐登志、構成:山崎巌
- くたばれ愚連隊 - 監督:鈴木清順、脚本:山崎巌
原健三郎=命懸けた「明石海峡大橋」
- ※注:このサイトは、原健三郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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