日本との関わり
- 1851年2月23日、忠清南道(チュンチョンナムド) 公州 (コンジュ) に生まれる。1872年、 21歳で科挙試験に首席で合格。 朝鮮の完全独立と国政改革をとなえ 「開化派」を結成した。
- 1881年、朝鮮の近代的革新を志して30歳で来日し、制度や文物を視察。明治維新を朝鮮近代化のモデルとする改革運動に奔走。 1882年(31歳)、第26代国王・初代大韓帝国皇帝の高宗の王命「勅命」を受けて2月から7月まで日本に遊学。
- 10月、玉均は再度日本を訪れ、福澤諭吉 (1834-1901/当時48歳)と親交を結び、福澤から紹介された外務卿・井上馨 (かおる)を通じて横浜正金(しょうきん) 銀行から運動資金を借款し、朝鮮半島初の諸外国への留学生の派遣や、福澤の支援を受け朝鮮半島で初め ての新聞である 『漢城旬報』の創刊発行に協力した。 朝鮮政府学部(文部省)と慶応義塾との間に留学生委託契約が結ばれると、玉均は 朝鮮半島として初の留学生派遣を行い、 50 名を越える留学生を福澤 (慶應義塾) に託した。
- 1884年 (33歳)、8月から清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月4日、玉均は清国からの独立を意図し、 日本 (公使・竹添進一郎)の援助を得て閔妃(ミンピ)一族から政権を奪取するクーデター 「甲申(こうしん) 政変」を敢行。新政府を組織、戸曹 (こそう※中央官庁) 参判となった。 しかし、清国との宗属関係を固守する「守旧派」の反撃による清国軍の介入、そして玉らを支持した日本軍の敗退により、わずか3日間で政変に失敗。 朴泳孝 (パクヨンヒョ)らと日本に亡命した。 明治政府は事態の紛糾をおそれ、玉均の亡命を対清外交の障害とみなして冷遇。 朝鮮政府は犯罪者として引き渡し要求をし、暗殺を企 てたことから、玉均は10年間、本国の刺客を避け、 小笠原、 北海道、 栃木、 東京を転々と放浪した。 滞在中、 福沢諭吉・後藤象二郎らの 保護を受けつつ再挙をはかった。
韓国政府に暗殺される
- 朝鮮政府は金玉均ら開化派の三親等 (曾祖父母~曾孫)の一族を捕らえ、 史上最も残酷な刑罰といわれる凌遅刑 (りょうちけい※ 長時間をかけ肉体を少しずつ切り落とす刑)で処刑し、見せしめのため遺体を晒した。 1885年2月23日&26日、 開化派を支援してきた福沢は、 彼らの親族が処刑されたとの報を聞いて、「朝鮮独立党の処刑 (前・後)」という論説で、朝鮮の体制を激しく非難し涙した。
- 「人間現世世界の地獄が朝鮮の京城に出現した。 私はこの国(朝鮮)を既に野蛮と評するよりも、むしろ妖魔悪鬼の地獄国と呼びたい者である。今この原稿を書こうにも涙がこぼれて原稿用紙を湿らせることを感じないのだ。」 そして、この約3週間後に『脱亜論』 が書かれた。 「悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。 私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである」。 福澤は朝鮮も封建制度を終わらせる維新が必要と考え、 近代化を目指す朝鮮開化派の玉均らを全力で 支援した。 慶應義塾に朝鮮人留学生を50人以上も積極的に受け入れ、朝鮮文化発展の為に私財を投じて朝鮮最初の新聞を発行し、ハ ングル活字を鋳造させた。 その彼らの親族が処刑された。 福澤は開化派処刑への激しい義憤から朝鮮政府に怒りを叩き付けたもので、
- 民族的な差別意識から書かれたものではない。 1894年、玉均は閔氏政権のスパイに誘い出されて上海に行き、3月28日に上海のホテルで朝鮮 「守旧派」の刺客・洪鍾宇(こうしょうう)の凶弾に倒れた。 享年43。
- 遺体は朝鮮に送還され、 「大逆無道」の罪人として、既に亡骸となっているのに凌遅刑(りょうちけい)に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、 片手及び片足は慶尚道、 他の手足は咸鏡道で晒された。
- 極刑 (凌遅刑に処された。 同年春、時を同じくして民間宗教・東学を奉ずる農民は分散した民衆の不満を結びつけ、朝鮮南部を中心に 汚職官吏の掃滅と外国人の排除を求める大規模な反乱を起こし、5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民 戦争)。
- 同年7月25日に日清戦争が勃発。 その後、 甲午の改革で開化派の金弘集 (きんこうしゅう) 内閣が組織されて反逆罪が解かれ、 名誉を回復された。号は古筠(こいん)。
★犬養毅・頭山満 (みつる) らの支援で青山霊園の外人墓地に墓が建てられた (細高い自然岩)。 墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の 孫である李竣銘の書で「嗚呼、 抱非常之才、 遇非常之時、 無非常之功、 有非常之死」(ああ大変な時期にたぐいまれなる才を抱き 大き な功績を残せず 無情の死) と刻まれている。 福澤は上海で暗殺された金玉均の供養のために法名をつけることを真浄寺の住職であ
- ある寺田福寿に依頼し、 福寿は 「古筠院釈温香」という法名を付け、法要は朴泳孝などを福澤邸に招いて営んだ。 玉均の護衛であった日本人・和田延次郎が遺髪と衣服の一部を密かに日本に持ち帰り、 宮崎滔天たちによって浅草本願寺で葬儀が営 まれた。 また、 長崎出身で写真館をソウルで営んでいた甲斐軍治 (ぐんじ) も、梟首 (きょうしゅ) 台から遺髪と衣類の一部を持ち帰り、 1900年に文京区の真浄寺に遺髪と衣類を埋めて金玉均の墓碑を建立し、自らも隣に眠っている。