承継
この追悼サイトは、 萬屋 錦之介(歌舞伎役者・時代劇俳優)さまのために作成されました。

享年64歳 、誕生日 1932年11月20日、命日 1997年3月10日
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萬屋 錦之介(よろずや きんのすけ、1932年昭和7年)11月20日 - 1997年平成9年)3月10日)は、歌舞伎役者、日本時代劇俳優

前名は中村 錦之助(なかむら きんのすけ)。歌舞伎界から映画界に転じ、当時を代表するスターとなり、その後はテレビや舞台でも活躍した。身長162cm[2]

中村錦之助時代の屋号播磨屋定紋は揚羽蝶で、萬屋錦之介と改名してからの屋号萬屋定紋は桐蝶。愛称は錦ちゃん(きんちゃん)。中村プロダクション代表(1968年 - 1982年)。東映俳優クラブ組合委員長(1965年の約3か月間)。

本名は小川 錦一(おがわ きんいち)。小川 衿一郎(おがわ きんいちろう)に改名していた時期もある。

概要[編集]
『サンケイグラフ』1955年4月10日号より満4歳になる直前に、歌舞伎の初舞台を踏み、以降39歳まで中村錦之助を名乗り、1971年10月に小川家一門が屋号播磨屋から「萬屋」に代えた1年後の1972年11月、40歳を迎えた時に芸名を萬屋錦之介に改めた

父は三代目中村時蔵。伯父に初代中村吉右衛門、叔父に十七代目中村勘三郎がいる。俳優の中村嘉葎雄は弟で、五代目中村歌六三代目中村又五郎五代目中村時蔵二代目中村錦之助二代目中村獅童はそれぞれ甥にあたる。母・ひなは、売れっ子だった赤坂芸者[3]

妻はいずれも女優の有馬稲子(初婚)、淡路恵子(再婚)、甲にしき(再々婚)。長男で俳優の島英津夫と、芸能人ではない次男は淡路の連れ子である。実子は淡路との間に三男の小川晃廣[注 1] と四男の小川哲史[注 2]

略歴[編集]
歌舞伎役者時代[編集]
暁星小学校卒、旧制暁星中学校を2年で中退。初名は中村 錦之助。父時蔵は吉右衛門劇団立女形で、歌舞伎役者の御曹司として、1936年11月歌舞伎座で初舞台。長兄・種太郎(のち二代目中村歌昇)、次兄・梅枝(のち四代目中村時蔵)、三兄・初代中村獅童と同時で、満4歳であった。女形・立役(男役)ともに務めて歌舞伎界にて役者修業を積んでいた。

映画界に転向[編集]
1954年結局、歌舞伎を断念する道を選んだ錦之助は、1953年11月15日歌舞伎座子供かぶき教室『菊畑』の虎蔵実ハ牛若丸を歌舞伎卒業公演として、1954年2月に映画界に転向する。錦之助と弟の賀津雄(嘉葎雄)が東映入りすると、三兄の初代中村獅童も梨園を去って、弟たちを東映のプロデューサーとして支えた。波紋を呼んだ錦之助の映画への転身だったが、この当時にすでにスターだった美空ひばり側の勧誘だったことも事態に負の要素となったといわれる。その証左に、錦之助が映画で名を成してから父を数本の映画に出演させたが、その際に父は特に歌舞伎をやめる必要はなかったことが挙げられる

美空ひばりとの共演作(新芸術プロ作品『ひよどり草紙』)で映画デビューの後、新東宝を経て東映に移籍。甘いマスクで注目されたこともあり同社製作の映画『笛吹童子』、『紅孔』に出演し、立て続けの大ヒットにより一躍スターとなり全国で「錦ちゃん」ブームが巻き起こった[3]。以降は大川橋蔵市川雷蔵東千代之介らと共に「二スケ二ゾウ」と呼ばれ東映時代劇の看板スターとなり、日本映画界の全盛期を支えた。『一心太助』シリーズ、『宮本武蔵シリーズは当たり役となり、特に武蔵役はライフワークとなった

ドラマに進出、舞台復帰[編集]
昭和30年代後半からテレビに人気を奪われ始めた映画産業の斜陽化に合わせて、錦之助はテレビドラマへの進出を図る。1965年に東映京都撮影所に東映俳優労働組合が結成されると、後輩たちから打診されて委員長に就任した。しかし、翌1966年東映内部の労働争議を収拾できなかったこともあり東映を退社[3]1968年に「中村プロダクション」を設立して独立し、本格的にテレビ時代劇の世界に進出した。この頃の出演ドラマとして、『子連れ狼』や『破れ傘刀舟悪人狩り』、『破れ奉行』、『長崎犯科帳』、『破れ新九郎』等がある

1956年の小川家による地方巡業『お祭』『仮名手本忠臣蔵 八段目道行旅路の嫁入』で舞台に復帰。毎年6月に東京・歌舞伎座で定期興行を打っていた。なお歌舞伎座での興行でありながら、錦之助の演目はほとんどが歌舞伎ではない新作時代劇であり、歌舞伎であっても全てが明治以降に作られたいわゆる「新歌舞伎」であった。本人も古典・伝統歌舞伎をやるつもりはなく、「子別れ(浄瑠璃歌舞伎演目の一つである"恋女房染分手綱"のこと)なんてできねぇよ」と言っていた。

萬屋錦之介への改名、さらなる活躍[編集]
1971年10月、歌舞伎座の三代目中村時蔵十三回忌追善興行で「小川家」で一門をなすことを宣言し、屋号を萬屋に、定紋を桐蝶に改めた。翌1972年に自身の芸名も中村錦之助から「萬屋 錦之介」と改めた。この際、名を占い姓名判断)により「錦之助」を「錦之介」と変えている。

1978年公開の映画『柳生一族の陰謀』で主演したが、錦之介が12年ぶりに東映に復帰した作品となった[5]。錦之介演じる柳生但馬守宗矩の「夢でござる」という台詞は話題になり[6]、作品も大ヒットとなった[7]大島渚は「岡田茂さんは、映画を当てるのは個人の情熱やでと言った。錦之介が久々に『柳生一族の陰謀』を当てたが、これは錦之介の情熱だった。客は選択眼が鋭い。その映画にかかっている情熱を直感する」などと評している[8]

1979年、テレビ朝日開局20周年記念番組『赤穂浪士』で主演を務めた。錦之介は沢島忠に「45歳になったら必ず大石内蔵助をやります。その時は監督をして欲しい」と依頼していたという。この作品で錦之介は、舞台・映画・テレビの全てで内蔵助を演じたことになった[9][注 3]

トラブル続きの晩年[編集]
先述の通り1968年に「中村プロダクション」を設立したが、社内にしっかりとした金の管理をできる者がいなかったことに加えて、人を信用しすぎる錦之介の人柄も相まって次第に経営が傾いていく[3]。結果、1982年2月に15億円もの莫大な借金を抱えて事務所は倒産し[10]、萬屋の別荘や自宅も人手に渡った[3]

事務所倒産から3か月後に出演した歌舞伎公演の最中に倒れ、首の筋肉が麻痺する重症筋無力症と診断されて入院。さらに同年8月には呼吸困難に陥り胸腺腫摘出手術をし[注 4]、長期入院を経て同年11月退院。翌1983年に重症筋無力症を克服し、1984年のドラマ「時代劇スペシャル 子連れ狼」で1年半ぶりに仕事を再開。悪いことは続き1990年には、右目角膜剥離を発病[3]。また、この間に自身の不倫が発覚、三男が亡くなった(#家族(妻と子供たち)参照)。

1996年に、翌年放送予定のNHK大河ドラマ毛利元就』の尼子経久役での出演が決まり製作発表の会見に臨むも、後日咽頭癌を発症し同役を降板した[注 5]。その後舌の付け根を大きく切除する手術を受けて、舞台に立つことを夢見てリハビリに励んだ[11][3]しかし1997年3月10日14時41分、入院先の千葉県柏市国立がんセンター東病院で肺炎のため死去[12][13]。64歳没。墓所は鎌倉市鎌倉霊園

出演作品[編集]
映画[編集]
170px-Kinnosuke_Nakamura_I_as_Kikumaru_in_Fuefuki_D%C5%8Dji_cropped.jpgあばれ振袖』(1955年240px-Nakamura-Kinnosuke-Takakura-Ken-1.png日本侠客伝』(1964年)240px-Nakamura-Kinnosuke-3.png沓掛時次郎 遊侠一匹』(1966年)
  1. 1954年2月10日 ひよどり草紙 / 制作:新芸術プロ
  2. 1954年3月24日 花吹雪御存じ七人男 / 制作:新東宝
  3. 1954年4月27日 新諸国物語 笛吹童子 第一部どくろの旗 / 制作:東映京都 役名:菊丸
  4. 1954年5月3日 唄しぐれ おしどり若衆 / 制作:東映京都
  5. 1954年5月3日 新諸国物語 笛吹童子 第二部幼術の闘争 / 制作:東映京都 役名:菊丸
  6. 1954年5月10日 新諸国物語 笛吹童子 第三部満月城の凱歌 / 制作:東映京都 役名:菊丸
  7. 1954年5月31日 里見八犬伝 第一部 妖刀村雨丸 / 制作:東映京都          他、多数あり
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このメッセージは、 2024年12月6日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
宮本武蔵シリーズは当たり役となり、武蔵役はライフワークとなった。 見事な演技は何度観ても感動を与えました。    合掌

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このメッセージは、 2024年12月6日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
宮本武蔵シリーズは当たり役となり、武蔵役はライフワークとなった。 見事な演技は何度観ても感動を与えました。    合掌