承継
この追悼サイトは、 田中 絹代(日本映画史を代表する大女優の一人)さまのために作成されました。

享年67歳 、誕生日 1909年11月29日、命日 1977年3月21日
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田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日[1])は、日本女優映画監督。本名同じ。旧芸名は田中 錦華(たなか きんか)。

黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。14歳で松竹に入社し、清純派スターとして人気を得て、松竹の看板女優となった。 戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し[3]、脇役を演じることが多くなるも円熟した演技を見せ、晩年は『サンダカン八番娼館 望郷』の演技でベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀主演女優賞)を受賞した。主な作品に『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』『雨月物語』『煙突の見える場所』『楢山節考』『おとうと』など。また、映画監督としても6本の作品を残している。

映画スターに(サイレント映画時代)[編集]220px-Young_Miss_1930.gifお嬢さん』(1930年)左から岡田時彦田中斎藤達雄1924年(大正13年)7月、兄(三男)が松竹大阪支社で給仕係として働いていた関係で面接を行い、8月に松竹下加茂撮影所へ入社[2]、母と2人で京都に移住した。10月に野村芳亭監督の時代劇『元禄女』で映画デビュー。同作では「犬の腰元」役を演じたが、主演の柳さく子と姿恰好が似ていたため、同時に彼女の後姿の代役もこなした[4]。続いて同年公開の清水宏監督『村の牧場』では早くも主役に抜擢された[3]

1928年(昭和3年)からは牛原虚彦監督・鈴木傳明主演の『彼と田園』『陸の王者』などの青春映画で鈴木の相手役として出演。この年だけでも16本もの作品に出演し、早くも蒲田の大スター・栗島すみ子に迫る人気スターとなり、1929年(昭和4年)1月には幹部に昇進した[4]。この年も牛原・伝明とのトリオで『彼と人生』『大都会 労働篇』に出演したほか、小津安二郎監督の初期作品である映画『大学は出たけれど』では可憐な娘を好演。「明るくあたたかく未来をみつめる」という蒲田映画のシンボル的イメージを確立し、栗島を抜いて松竹蒲田の看板スターとなった[4][9]

トーキー映画の時代へ[編集]1931年(昭和6年)、五所監督による日本初の本格的トーキー映画[注釈 4]マダムと女房』に主演し[注釈 5]その甘ったるい声で全国の映画ファンを魅了した。また同作で抜群の記憶力と勘の良さで自在にセリフを操った絹代は、それ以降サイレント映画の主役たちに取って代わるようになる[2]1932年(昭和7年)、野村監督の『金色夜』で下加茂の大スター林長二郎と共演、二人による貫一・お宮で評判を呼び、どこの劇場も満員札止めの大盛況となる[4]ほどの人気作となった。ほか、五所監督『伊豆の踊子』『生のお荷物』、島津監督『春琴抄 お琴と佐助』などに主演していき、トーキー時代も蒲田の看板スターとして在り続けた。1933年(昭和8年)1月に大幹部待遇[10]1935年(昭和10年)に大幹部となった[2]

1936年(昭和11年)1月15日に撮影所が蒲田から大船に移転してからも、松竹三羽烏上原謙佐野周二佐分利信らを相手役として、次々と作品でヒロインを演じた。特に1938年(昭和13年)に上原と共演した野村浩将監督のメロドラマ愛染かつら』は空前の大ヒットを記録し、その後4本の続編が製作された[3][1]。一部マスコミでは、「“田中絹代”という女優を日本中の誰もが知るようになったのは、『愛染かつら』シリーズに出演してから」と位置づけられている[2]1940年(昭和15年)には溝口健二監督の『浪花女』に主演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自らも演技に自信を深めた。

戦後は引き続き松竹の看板女優として主役の座を守り続け、それまで清純派として活躍していたが、溝口監督の『夜の女たち』や小津監督の『風の中の牝鶏』では汚れ役に挑戦して新境地を開拓[2]1947年(昭和22年)と1948年(昭和23年)に毎日映画コンクール女優演技賞を受賞。

この女優としてのピンチを救ったのが、田中と同じくスランプに遭っていた溝口監督で、彼女は1952年(昭和27年)の『西鶴一代女』に主演。田中はお春役として御殿女中から様々な運命をたどり、ついには街娼となって老醜をさらけ出す[注釈 7]という女の一生を演じる。作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、田中は一世一代の名演を披露、女優として完全復活を果たした[11]。溝口も同時にスランプから脱することに成功[注釈 8]し、翌1953年(昭和28年)には同じコンビで『雨月物語』を製作、作品はヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。翌1954年(昭和29年)には同じく溝口の『山椒大夫』と『噂の女』に出演した。
『恋文』をロケーション中の田中1953年2月、丹羽文雄原作の『恋文』で映画監督業へ進出することを発表[1]。同年12月に監督デビューした後、10年間で京マチ子主演の『流転の王妃』など計6作品を撮り(詳しくは後述)、「細やかな演出」と高い評価を受けた[2]

1965年(昭和40年)、黒澤明監督の『赤ひげ』に出演した後、パーキンソン病に罹った兄の看護に専念するため、しばらくは仕事を断るようになった[4]1968年に郷里・下関赤間神宮で、「明治百年記念」と題して開催された先帝祭で「禿(かむろ)」に扮し、同郷の女優・木暮実千代と共に特別出演した[2][13][注釈 10]1970年(昭和45年)、NHK大河ドラマの『ノ木は残った』に出演。以降はテレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役や連続テレビ小説雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。また、1970年に紫綬褒章を受章

1974年(昭和49年)、熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』で元からゆきさんの老婆を演じ、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞芸術選奨文部大臣賞などを受賞した1975年3月、日本経済新聞の『私の履歴書』の欄に田中の半生などが1ヵ月間に渡って掲載された。それまで神秘のベールに包まれてきた日本を代表する女優の半生が、初めて本人の言葉で明かされ[注釈 11]、読者から大きな反響を呼んだ[2]

死去[編集]最晩年、借金を抱えて困窮していた田中の面倒は唯一の親戚である[15][16] 小林正樹監督が看ていた。

1977年(昭和52年)1月12日に強度の頭痛に襲われて順天堂病院に緊急入院し、脳腫瘍と診断された数日後には視力を失った。3月21日午後2時15分に脳腫瘍の悪化により死去[17][1]。享年67。入院中の田中は、見舞いに来た小林に「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と言い、女優復帰を願っていたが叶わなかった[2]

受賞歴[編集]  田中絹代(下関市提供) - 捕鯨、田中絹代…山口・下関市民が選ん ... 田中絹代 | 優依ぱぱHP(映画鑑賞、読書、スポーツ観戦 ... 田中絹代さん』 | 昔 美人, 日本人 顔, 古い写真


       1点の田中絹代墓の写真・イラスト素材  下関の道標・景観・街並み 297 | 道標・碑・景観・街並み
   田中絹代のお墓  東京都稲城市平尾1-45-2 サイレントパーク15-203

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このメッセージは、 2024年5月21日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
日本映画史に燦然と輝く大女優でした。 数多くの作品はいついつまでも私たちの心に遺ることでしょう。          合掌

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このメッセージは、 2024年5月21日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
日本映画史に燦然と輝く大女優でした。 数多くの作品はいついつまでも私たちの心に遺ることでしょう。          合掌
軌跡

(生い立ち)

1909年(明治42年)11月29日山口県下関市関後地村[4](現在の下関市丸山町)に父・久米吉と母・ヤスの四男四女[注釈 2]の末娘として生まれる。元々は裕福な家庭だったが1912年(明治45年)1月に久米吉が病死したのを皮切り、田中家は数々の不運に見舞われ次第に困窮していく(後述)。家の経済事情の悪化により1916年(大正5年)9月に保太郎を後見人に、母と兄3人、姉1人とともに大阪市天王寺村(現在の天王寺区)へ移住した[4]。直後に患った病気療養により長期間学校に通えなかったが、治癒後保太郎が家庭教師になって猛勉強したおかげで、1918年(大正7年)4月に天王寺尋常小学校3年に編入される[4]

(幼少期)

幼い頃から琵琶を習っていた絹代は筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、1919年(大正8年)に免許を受けて田中錦華の名を貰うが、小学校で女性教師と諍いを起こして自主退学する[2](後述)。翌1920年(大正9年)、錦城が組織した琵琶少女歌劇に加わり[5]楽天地の舞台に立つ[6]。そのうち楽天地にある映画館に出入りし、栗島すみ子主演の『虞美人草』に感激したり、子役の高尾光子に憧れるうちに映画女優を志す。絹代を琵琶の師匠にと考えていた母に猛反対されるが、1923年(大正12年)に歌劇団が解散したこともあり、保太郎の説得で女優になることを許可された。