承継
軌跡

(生い立ち)

1909年(明治42年)11月29日山口県下関市関後地村[4](現在の下関市丸山町)に父・久米吉と母・ヤスの四男四女[注釈 2]の末娘として生まれる。元々は裕福な家庭だったが1912年(明治45年)1月に久米吉が病死したのを皮切り、田中家は数々の不運に見舞われ次第に困窮していく(後述)。家の経済事情の悪化により1916年(大正5年)9月に保太郎を後見人に、母と兄3人、姉1人とともに大阪市天王寺村(現在の天王寺区)へ移住した[4]。直後に患った病気療養により長期間学校に通えなかったが、治癒後保太郎が家庭教師になって猛勉強したおかげで、1918年(大正7年)4月に天王寺尋常小学校3年に編入される[4]

(幼少期)

幼い頃から琵琶を習っていた絹代は筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、1919年(大正8年)に免許を受けて田中錦華の名を貰うが、小学校で女性教師と諍いを起こして自主退学する[2](後述)。翌1920年(大正9年)、錦城が組織した琵琶少女歌劇に加わり[5]楽天地の舞台に立つ[6]。そのうち楽天地にある映画館に出入りし、栗島すみ子主演の『虞美人草』に感激したり、子役の高尾光子に憧れるうちに映画女優を志す。絹代を琵琶の師匠にと考えていた母に猛反対されるが、1923年(大正12年)に歌劇団が解散したこともあり、保太郎の説得で女優になることを許可された。