承継
軌跡

(生い立ち)

1915年大正4年)11月20日三重県宇治山田市(現・伊勢市)生まれ[1]。呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれたが、父親が急死し、後に呉服問屋も倒産したため、4歳から次女の嫁ぎ先である大阪市西区九条に母親と共に移り、母と次女、次女の娘と一緒に幼少生活を送る。家庭環境は良好だったが、次女の夫は大阪商船の機関長で遠洋航海に出ることが多く、家に不在の時期も多かった。また、母親が48歳の時に生まれ、唯一の男子であったため甘やかされて育ったという。

(学生時代)

九条第一尋常小学校(現・大阪市立九条東小学校)に進学し、その後、母親が京都に移り住むことになって、京都の朱雀第一尋常小学校高等科(現・京都市立朱雀第一小学校)に転校した。在学中に脊椎カリエスの発症疑いを診断されて、三女の嫁ぎ先がある長野県更級郡篠ノ井町に母親と共に転地療養する。しかし、半年で完治したため再び大阪に戻り、市立市岡商業学校に進学[1]。その後、三女の姉の再婚先である広島市の家に母親が同居するのに合わせて、市川も広島へ移り住む。

(映画監督への道のり)

1935年(昭和10年)、J.O.スタヂオの社長である大沢善夫が劇映画を製作することになり、トーキー漫画部は大幅に人員を縮小され、アニメーターは市川だけとなる。この頃、作曲以外の脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画『新説カチカチ山』を発表するが、市川がアニメ制作を行う少し前から、J.O.スタヂオを日活の子会社である太秦発声が借りて劇映画を製作しており、山中貞雄監督の『河内山宗俊』や『街の入墨者』の撮影現場を見学したり、J.O.スタヂオが東和商事から輸入した欧州映画の字幕制作を請け負っていた関係から『にんじん』や『商船テナシチー』、『未完成交響楽』、『春の調べ』などを検閲前に観ることができ、漠然と劇映画への傾倒を強めていった。その後、J.O.スタヂオが自主製作した『百万人の合唱』がヒットし、続けて製作した『かぐや姫』もヒットした事で、トーキー漫画部は閉鎖となり、市川は実写映画の助監督部に転籍する[1]。伊丹万作とアーノルド・ファンクが共同監督した『新しき土』、円谷英二監督の『小唄礫・鳥追お市』、永富映次郎監督の『勝太郎子守歌』などで雑用係をやった後、石田民三監督の『夜の鳩』から本格的な助監督の仕事をするようになる