この想いでサイトは、 柳田 國男(民俗学者)さまを承継するために作成されました。
享年87歳 、誕生日 1875年7月31日、命日 1962年8月8日
※メッセージの投稿や、想いでの共有はサインイン(記帳)で可能になります。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:柳田 國男(やなぎた くにお)
戒名:永隆院殿顕誉常正明国大居士
墓地: 神奈川県川崎市・春秋苑
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた[1]。1949年日本学士院会員、1951年文化勲章受章。1962年勲一等旭日大綬章(没時陞叙)。
「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。
1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡辻川村(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男(男ばかりの8人兄弟)として出生。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、越知川があり古くから農村として開けていた。字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている
幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に住んだ。生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受ける[注釈 1]。徳満寺という寺では、間引き絵馬(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受ける
17歳の時、尋常中学共立学校(のちの開成高等学校)に編入学する。この年、田山花袋を知る。翌年、郁文館中学校に転校し進級する[3]。19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎える。東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになる。
井上通泰の紹介により森鷗外と親交を持ち、『しがらみ草紙』に作品を投稿、また通泰の世話で桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『文學界』『國民之友』『帝國文学』などに投稿する。1897年(明治30年)には田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた[4]。飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから当時の文学(特に自然主義や私小説)のありようを次第に嫌悪し決別していった。
民俗学の夜明け[編集]東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れるうちに次第に民俗的なものへの関心を深めてゆく。また、当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも起こっていた「怪談ブーム」のさなか[注釈 2]で当時新進作家だった佐々木喜善と知り合い、岩手県遠野の佐々木を訪問して『遠野物語』を執筆する[5]。他に宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌『郷土研究』を創刊する。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。
日本民俗学の確立[編集]『蝸牛考』での「方言周圏論」、『郷土生活研究法』における「重出立証法」などで日本民俗学の理論や方法論が提示されるなど、昭和初期は日本民俗学の確立の時代であった。一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み、民俗採集の重要性と方法が示された。以降、日本人は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に「内省の学」として位置づけられてきた。
勲章等
柳田國男・松岡家顕彰会記念館 兵庫県神崎郡福崎町西田原1038-12
柳田國男館 平成元年(1989年)に飯田市美術博物館の附属施設として開館しました
長野県飯田市追手町2-655-7
享年87歳 、誕生日 1875年7月31日、命日 1962年8月8日
※メッセージの投稿や、想いでの共有はサインイン(記帳)で可能になります。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:柳田 國男(やなぎた くにお)
戒名:永隆院殿顕誉常正明国大居士
墓地: 神奈川県川崎市・春秋苑
関連リンク:
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた[1]。1949年日本学士院会員、1951年文化勲章受章。1962年勲一等旭日大綬章(没時陞叙)。
「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。
1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡辻川村(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男(男ばかりの8人兄弟)として出生。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、越知川があり古くから農村として開けていた。字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている
幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に住んだ。生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受ける[注釈 1]。徳満寺という寺では、間引き絵馬(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受ける
17歳の時、尋常中学共立学校(のちの開成高等学校)に編入学する。この年、田山花袋を知る。翌年、郁文館中学校に転校し進級する[3]。19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎える。東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになる。
井上通泰の紹介により森鷗外と親交を持ち、『しがらみ草紙』に作品を投稿、また通泰の世話で桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『文學界』『國民之友』『帝國文学』などに投稿する。1897年(明治30年)には田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた[4]。飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから当時の文学(特に自然主義や私小説)のありようを次第に嫌悪し決別していった。
民俗学の夜明け[編集]東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れるうちに次第に民俗的なものへの関心を深めてゆく。また、当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも起こっていた「怪談ブーム」のさなか[注釈 2]で当時新進作家だった佐々木喜善と知り合い、岩手県遠野の佐々木を訪問して『遠野物語』を執筆する[5]。他に宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌『郷土研究』を創刊する。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。
日本民俗学の確立[編集]『蝸牛考』での「方言周圏論」、『郷土生活研究法』における「重出立証法」などで日本民俗学の理論や方法論が提示されるなど、昭和初期は日本民俗学の確立の時代であった。一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み、民俗採集の重要性と方法が示された。以降、日本人は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に「内省の学」として位置づけられてきた。
勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等単光旭日章・明治三十七八年従軍記章[16]
- 1911年(明治44年)6月13日 - 勲五等瑞宝章[16]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[16][18]
- 1914年(大正3年)
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[16]
- 1916年(大正5年)
- 1919年(大正8年)9月29日 - 銀杯一個[16]
- 1920年(大正9年)9月7日 - 旭日中綬章[16][20]
- 1962年(昭和37年)8月8日 - 勲一等旭日大綬章(没時陞叙)
- 1912年(大正元年)10月9日 - ロシア帝国:神聖アンナ第二等勲章[16]
- 1913年(大正2年)1月31日 - ノルウェー王国:サンオラフ第二等乙級勲章[16]
- 1920年(大正9年)4月9日 - セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国:白鷲第三等勲章[16]
- 『遠野物語』東北地方の伝承を記録した、柳田民俗学の出発点。現行版は新潮文庫・角川ソフィア文庫・岩波文庫ほか(話者:佐々木喜善の『聴耳草紙』より、新版ちくま学芸文庫)、他に「佐々木喜善全集」遠野市立博物館編・刊行(全4巻)。
- 『蝸牛考』各地のカタツムリの呼び名の方言分布を比較検討することにより、言葉が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにしたもの。この中で提唱された理論が方言周圏論である。言葉は文化的中心地を中心として、まるで何重もの円を描くように周辺へと伝播し、中心地から遠く離れた地方ほど古い言葉が残っていることを示したものである。柳田自身は晩年になって、「あれはどうも成り立つかどうかわかりません」と発言し、方言周圏論に懐疑的になっていたといわれる。しかし、彼の死後6年経って刊行されはじめた国立国語研究所の『日本言語地図』では「牝馬」「もみがら」など、調査した言葉のおよそ27%に周圏分布が見られ、方言周圏論が有効な理論であることが確認された。
- 『妹の力』古代での女性の霊力・信仰に関する考察。
- 『桃太郎の誕生』昔話の解析を通して、日本社会の断面図を描こうとしたものだが、この手法は民俗・民族学、文化人類学に応用され、多くの後継者を生み出した。(例:中野美代子『孫悟空の誕生』 岩波現代文庫)
- 『故郷七十年』晩年の口述での回想[注釈 5]、嘉治隆一(朝日新聞記者)と宮崎修二朗[注釈 6](神戸新聞記者)が筆記しまとめた。
- 『日本の民俗学』(中公文庫[注釈 7]、2019年)。文庫オリジナルでの柳田学入門
柳田國男・松岡家顕彰会記念館 兵庫県神崎郡福崎町西田原1038-12
柳田國男館 平成元年(1989年)に飯田市美術博物館の附属施設として開館しました
長野県飯田市追手町2-655-7
- ※注:このサイトは、柳田國男に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝