承継
この追悼サイトは、 生沢 クノ(日本で2番目の女性医師)さまのために作成されました。

享年80歳 、誕生日 1864年12月30日、命日 1945年6月18日
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生沢 クノ(いくさわ くの、1864年元治元年)12月30日 - 1945年6月18日)は日本で2番目の女性医師。日本で初めての女性医師である荻野吟子に次いで、1887年に23歳で医師免許を取得[2]してから68歳まで長く地域医療に尽くした[3]

生涯[編集]医師になるまで[編集]蘭学医である生沢良安の三女として1864年(元治元年)に武蔵国榛沢郡深谷宿(現在の埼玉県深谷市)に生まれた。13歳の時に女性の病気を治療する医師になることを志して、勉強のために上京した。しかし、当時の日本では女性の医師は政府に認められておらず、医学校に入るのも困難だった[3]目標を女子師範学校への入学に変更し、松本萬年の私塾である止敬塾にて漢文を学んだ[4]

1882年(明治15年)に東京府病院に見習いとして入る。東京神田にあった東亜医学校が開校され入学した。当時の講師は後に有名になる樫村清徳や森鷗外、片山芳林などがいた。しかし、これらの講師たちが相次いで海外へ留学したため同校はほどなく廃校になった[5]

1883年には東京府と埼玉県にあいついで医学試験請願書を出すが、いずれも却下された1884年には済生学舎に入学。同じ時期に、東京慈恵病院医学校の付属病院で高木兼寛から臨床医学の指導を受けた。同年、医学免許規則が改正され女性が受けられるようになるが、その年は過労で倒れており受験できなかった。1885年に前期試験、1886年に後期試験に合格し、1887年に内務省医籍に登録された[3]

医師になってから[編集]埼玉県榛沢郡寄居町で開業していた父・良安を手伝う。1888年(明治21年)7月には独立、埼玉県入間市川越町に医院を開いた1899年(明治32年)には、父の面倒をみるために同居をはじめ、埼玉県大里郡本畠村に医院を開いたものの1905年(明治38年)に閉鎖、深谷町で医院を開く。1908年に父が他界。1921年(大正10年)には家主から明け渡しを要求され医院を閉鎖、栃木県足利市の岩根病院に雇用される。1931年(昭和6年)岩根病院の副院長を辞職し、医師としては引退した[3]

赤ひげだったクノ
クノは、父の助手として寄居や児玉で医療に携わったのをはじめ、川越、川本、深谷、足利と各地で開業・閉鎖を繰り返していました。

当時、医者にかかるのがまだ一般的ではなかったため、医院経営は成り立たなかったといわれています。しかし、父の良安もクノも、報酬をあてにせず、貧しい病人には無料で治療にあたり、費用の代わりに農産物などを受け取ったりもしていました

児玉の分院の看板には、良安の直筆で「医士生沢」の文字がありました。これは、「医師」ではなく、医のさむらいであろうとする厳格で高い志を表しているといわれています。
    中山道深谷宿-22生沢クノの墓 - YouTube 生沢クノの墓 中山道深谷宿

※注:このサイトは、生沢クノに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2024年7月2日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
生涯を地域医療に捧げました。 幾多の困難を乗り越え、決して諦めなかったクノの情熱が女性医師への後進の道を切り拓いたのです。
「赤ひげ」だったクノ・・・父の良安もクノも報酬をあてにせず、貧しい病人には無料で治療にあたり、費用の代わりに農産物を受け取ったりもしていました。
        合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2024年7月2日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
生涯を地域医療に捧げました。 幾多の困難を乗り越え、決して諦めなかったクノの情熱が女性医師への後進の道を切り拓いたのです。
「赤ひげ」だったクノ・・・父の良安もクノも報酬をあてにせず、貧しい病人には無料で治療にあたり、費用の代わりに農産物を受け取ったりもしていました。
        合掌