この追悼サイトは、 浜口 庫之助(シンガーソングライター・作詞家・作曲家)さまのために作成されました。
享年73歳 、誕生日 1917年7月22日、命日 1990年12月2日
※ 浜口さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本のシンガーソングライター。愛称はハマクラ。
兵庫県神戸市出身。東京府立第四中学校卒業。青山学院大学商学部卒業。パーカッショニストの浜口茂外也は息子。元女優の渚まゆみは妻。
1936年、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動した。当時の浜口は昼と夜に2つのバンドを掛け持ちしながらアメリカへ渡ってジャズの修行をすることを夢見ていた。この夢は翌1937年になって実現しかけたが、日中戦争の開戦が近いという情報を入手した友人に渡航中止を勧められて断念した[3]。
渡航を断念した浜口は神戸製鋼所に就職したが社会人として働くには学歴が必要だと悟り退社。1939年に青山学院高等商学部(現・青山学院大学経営学部)に入学した。当時の浜口はギター講師やスタジオ・ミュージシャンをして生活費を稼ぐ傍ら、大学内で立教大学や慶應義塾大学など他大学の学生と一緒に「DooDooフライヤン」という名のバンドを組んで活動した[4]。
1942年9月に青山学院高等商学部を繰り上げ卒業した浜口はジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任した。浜口は終戦まで同地に勤務し、商社の仕事の他に軍の依頼で現地の住民に歌を通して日本語教育を行う仕事も任された。
1950年結婚、一男一女をもうける。長男はスタジオミュージシャンで、ラテンパーカッショニストとして日本屈指の存在である浜口茂外也。
「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場した(第4回・第5回・第6回を参照)。
1957年、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を演奏するのではなく日本の曲を創作することこそが重要だと認識するようになり、バンドを解散、歌手活動を停止し、作詞家・作曲家へ転向。
1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで数々のヒット曲を生み出すようになった[7]。また「有難や節」を題材にした日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演している。
1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。
1965年、「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズ、ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきらなど自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。
1966年、「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で日本レコード大賞(第8回)・作曲賞を受賞。以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を世に送り続けた。鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを得意とし、今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多い。
1973年に女優の渚まゆみと再婚。一女をもうけた。
晩年の1987年には、島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒットした。
1989年、テレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当した。
大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、1990年には文化庁から叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退した。
主な作品[編集]歌謡曲・フォーク・ポップス[編集]
多磨霊園にある浜口家の墓1990年12月2日、喉頭癌のため、東京都豊島区の癌研究会附属病院にて死去、73歳没[1]。クリスチャンであったため、葬儀は東京都千代田区飯田橋の富士見町教会で営まれた。
※注:このサイトは、浜口庫之助に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年73歳 、誕生日 1917年7月22日、命日 1990年12月2日
※ 浜口さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本のシンガーソングライター。愛称はハマクラ。
兵庫県神戸市出身。東京府立第四中学校卒業。青山学院大学商学部卒業。パーカッショニストの浜口茂外也は息子。元女優の渚まゆみは妻。
1936年、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動した。当時の浜口は昼と夜に2つのバンドを掛け持ちしながらアメリカへ渡ってジャズの修行をすることを夢見ていた。この夢は翌1937年になって実現しかけたが、日中戦争の開戦が近いという情報を入手した友人に渡航中止を勧められて断念した[3]。
渡航を断念した浜口は神戸製鋼所に就職したが社会人として働くには学歴が必要だと悟り退社。1939年に青山学院高等商学部(現・青山学院大学経営学部)に入学した。当時の浜口はギター講師やスタジオ・ミュージシャンをして生活費を稼ぐ傍ら、大学内で立教大学や慶應義塾大学など他大学の学生と一緒に「DooDooフライヤン」という名のバンドを組んで活動した[4]。
1942年9月に青山学院高等商学部を繰り上げ卒業した浜口はジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任した。浜口は終戦まで同地に勤務し、商社の仕事の他に軍の依頼で現地の住民に歌を通して日本語教育を行う仕事も任された。
1950年結婚、一男一女をもうける。長男はスタジオミュージシャンで、ラテンパーカッショニストとして日本屈指の存在である浜口茂外也。
「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場した(第4回・第5回・第6回を参照)。
1957年、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を演奏するのではなく日本の曲を創作することこそが重要だと認識するようになり、バンドを解散、歌手活動を停止し、作詞家・作曲家へ転向。
1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで数々のヒット曲を生み出すようになった[7]。また「有難や節」を題材にした日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演している。
1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。
1965年、「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズ、ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきらなど自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。
1966年、「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で日本レコード大賞(第8回)・作曲賞を受賞。以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を世に送り続けた。鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを得意とし、今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多い。
1973年に女優の渚まゆみと再婚。一女をもうけた。
晩年の1987年には、島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒットした。
1989年、テレビ北海道開局記念番組「北海道はオーケストラ」の音楽を担当した。
大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、1990年には文化庁から叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退した。
主な作品[編集]歌謡曲・フォーク・ポップス[編集]
作詞・作曲[編集]
- 夜のベンチ(歌:大野一夫)(1959年)
- 僕は泣いちっち(歌:守屋浩)(1959年)
- 銀座の子守唄(歌:和田浩治(1960年)、守屋浩(1971年))
- コロッケの唄(歌:五月みどり)(1962年, 2003年)
- 夜空の笛(歌:守屋浩)(1962年)
- 涙くんさよなら(歌:坂本九、ジャニーズ、和田弘とマヒナスターズ、ジョニー・ティロットソンの競作)(1965年)
- 愛して愛して愛しちゃったのよ(歌:田代美代子・和田弘とマヒナスターズ)(1965年)
- 星娘(歌:西郷輝彦)(1965年)
- 星のフラメンコ(歌:西郷輝彦)(1966年)
- バラが咲いた(歌:マイク真木)(1966年)
- 笑えピエロ(歌:植木等)(1966年)
- 夕陽が泣いている(歌:ザ・スパイダース)(1966年)
- 風が泣いている(歌:ザ・スパイダース)(1967年)
- 夜霧よ今夜も有難う(歌:石原裕次郎(1967年)、吉田拓郎(1977年))
- 粋な別れ(歌:石原裕次郎)(1967年)
- 愛の渚(歌:水原弘)(1967年)
- スイッチョ小唄(歌水原弘) (1967年)
- エンピツが一本(歌:坂本九、葉村エツコ)(1967年)
- 花と小父さん(歌:伊東きよ子(1967年)、植木等(1967年)、畠田理恵(1989年)、里見浩太朗・熊田胡々(2012年))
- 夜の虫(歌:浜口庫之助(1967年)、渚まゆみ(1974年)、みのもんた(2006年))
- 花の手拍子(歌:英亜里)(1968年)
- 港町 涙町 別れ町(歌:石原裕次郎)(1969年)
- みんな夢の中(歌:高田恭子)(1969年)
- 涙と幸せ(歌:江利チエミ(1969年)、浜口真弓+庫之助(1983年))
- へんな女(歌:水原弘)(1970年)
- もう恋なのか(歌:にしきのあきら)(1970年)
- こんど生まれてくる時は 水原弘(1971年)
- ああこの恋は 水原弘(1971年)
- 空に太陽がある限り(歌:にしきのあきら)(1971年)
- 熱い涙(歌:にしきのあきら)(1971年)
- 恋の町札幌(歌:石原裕次郎(1972年)、石原裕次郎・川中美幸(1995年)、里見浩太朗・熊田胡々(2012年))
- 我愛你(歌:方怡珍)(1973年)
- 奪われたいの(歌:渚まゆみ)(1973年)
- 祭りの夜は恋の夜 歌 水原弘(1973年)
- 青空 歌 水原弘(1973年)
- わたし半人前(歌:渚まゆみ)(1974年)
- クロスオーバー・ラブ(歌:石原裕次郎)(1978年)
- 大人になれば(歌:大場久美子)(1978年)
- 恋の雪まつり(歌:三浦雄一郎)(1980年)
- 夕暮れ、恋人(歌:和田アキ子)(1981年)
- キャベツ畑の子供たち(歌:間下このみと子供たち)(1984年)
- ロマン札幌(歌:渚まゆみ)(1985年)
- 恋する蝶々(歌:五月みどり)(1988年)
- 愛しただけよ(歌:柏原芳恵)(1988年)
- 海の声 森の声(歌:堺正章)(1991年)
多磨霊園にある浜口家の墓1990年12月2日、喉頭癌のため、東京都豊島区の癌研究会附属病院にて死去、73歳没[1]。クリスチャンであったため、葬儀は東京都千代田区飯田橋の富士見町教会で営まれた。
※注:このサイトは、浜口庫之助に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝