承継
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本名:藤田 まこと(ふじた まこと)
戒名:寿量院修芸日真居士
墓地:ー

日本俳優歌手コメディアン。 東京府東京市(現:東京都豊島区池袋生まれ、京都府京都市育ち。京都市立堀川高等学校中退[1]血液型はAB型。身長173cm。

父は俳優の藤間林太郎。次女は『必殺仕事人V』『必殺橋掛人』の主題歌「さよならさざんか」を歌った藤田絵美子(現:EMIKO)。孫(長女・敬子の娘)は歌手の花リーナ[2]大正三美人の一人林きむ子は父の異父姉[3]で伯母に当たる。曾我廼家喜劇の女形だった曾我廼家弁天は父の異父兄[3]で伯父に当たる。

オフィス斉藤所属。過去には渡辺プロダクション、ごく一時期には吉本興業、その後は新演技座(個人事務所)に所属していた。2002年に紫綬褒章を受章[4]

1943年、一家は関西(近畿)へ移った。はじめは大阪府枚方市光善寺へ引っ越したが、近くに兵器工場があったため空襲に遭う危険のあることが分かり、すぐに京都府京都市の四条堀川へ再度引っ越した[11]。終戦後の1946年、かつて住んでいた光善寺の長屋の大家との養子縁組の話が持ち上がると、継母を嫌っていた藤田は承諾した。藤田は養父母に馴染んだ[12]が、間もなく志願兵として兵役についていた兄の戦死が判明(搭乗していた輸送船江龍丸が沖縄の久米島沖で十・十空襲に遭い、沈没)し、家族のもとへ戻った[13]
俳優・歌手・司会者として活動[編集]1940年代後半[† 3]、林太郎が所属していた一座に雑用係として参加するようになり、他の一座の巡業にも参加するようになった[25]17歳の時に歌謡ショーの一座の公演で「旅笠道中」を歌ったのが藤田の初舞台で[26]、やがて舞台俳優としても活動するようになった[27]。「藤田まこと」の芸名を名乗るようになったのはこの時期であ[28]。舞台俳優からキャリアをスタートさせたことから、藤田は「映画俳優を含め、舞台に上がっていない芸人は芸人ではない」という考えを持っていた[29]

10代の終わりに歌手を志して上京し、ディック・ミネのカバン持ちをしながら前座の歌手として活動した[30]。1年ほどで大阪へ戻り、日本マーキュリーレコードでアルバイトとして働きながら歌手としての修業を積んだ[31][† 4]。藤田は日本マーキュリーレコード所属の歌手の地方巡業に前座歌手として参加したが、ある時病気になった司会者の代役を務めたのをきっかけに、巡業の司会者としても活動するようになった[32]司会者時代に最も印象に残っている歌手は東海林太郎で、癌の手術を受けた直後で体調が悪かったにもかかわらず、客の入り悪い冬の公演を一切手を抜かずにこなした姿に感銘を受けた後に東海林の生涯を芝居にしたいと考えた藤田は、1981年10月から1982年3月にかけて東京・大阪・名古屋で『東海林太郎物語・歌こそ我が命』を上演し、1984年に文化庁芸術祭優秀賞を受賞した[33][34]

藤田は中田ダイマル・ラケットの助言を受けて司会の仕事をやめ、俳優として中田ダイマル率いる「ダイマル・ラケット劇団」に入団[35]。藤田曰く当時の大阪では俳優とコメディアンの区別がなく、「役者志望の見習いコメディアン」として活動した[36]。1957年、コメディー時代劇『ダイラケのびっくり捕物帖』で初めてテレビ番組に出演[37]。藤田が演じたのは縁側に座っているだけの与力の役で[38]、藤田によると「なにがなんやらわからんうちにはじまって、終わってしもた」
てなもんや三度笠に出演[編集]1962年時代劇コメディー『てなもんや三度笠』に出演。それまで脇役しか演じたことのなかった藤田が初めて主役(あんかけの時次郎)に抜擢された。出演依頼が来た時点で藤田は脇役としてテレビで6本、ラジオで5本の番組にレギュラー出演していたが、ディレクター澤田隆治に「主役の役者が他の番組で脇役を演じては恰好がつかない」という理由からそれらの番組を全て降板するよう要求された。藤田は「三軍[† 5]から一軍に上がるチャンスかもしれん」と思い、条件を受け入れた
てなもんや三度笠』は1年間52回の予定で放映を開始した[43]。当初藤田は番組が予定通り1年間存続することさえ危ぶんでいたが、予想外の人気を博し、同番組のスポンサーであった前田製菓のCMフレーズ「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」[† 6]白木みのる財津一郎ら個性的なレギュラー陣のギャグも大当たりとなり、1968年まで放映された
必殺シリーズに出演[編集]1973年、広島のキャバレー出演中に朝日放送(ABC)[† 9]プロデューサーの山内久司から電話で、時代劇『必殺仕置人』の中村主水役出演オファーを受ける[50]。山内は、殺し屋グループ『必殺仕置人』といっても家庭で楽しむホームドラマであるし、現代サラリーマンを映した役として「同心」を考え、家庭に馴染む役者として藤田を思いついた[50]。しかし藤田は『てなもんや三度笠』での「意地にゃ強いが情けに弱い、...腕と度胸じゃ、負けないけれど、なぜか女にゃチョイと弱い」イメージが強すぎ[50]、「それが闇の殺し屋?無理じゃないの」という反対意見が朝日放送内で起こったが、その反対を押し切り山内は藤田の起用を決めた

『必殺仕置人』は当初、山﨑努が演じる念仏の鉄を中心に描かれていたが、次第に藤田の中村主水を中心に物語が展開するようになった[54]硬軟合わせた意外性と二面性を演じ分けた藤田主水の人気は爆発した[50]。「あんたはもう死んでいるぜ」は流行語になり[50]、テレビ時代劇から初のオリジナル・ヒーローが誕生した[50]『必殺仕置人』で複数回監督を担当した三隅研次は、はじめ「おっさん!あんた芝居下手やなぁ」「こんなんで飯食えると思てんのか!」と藤田の演技を酷評した[55]が、次第に「だいぶ芝居が落ち着いてきた」「これあと3回くらいやったら、一生もんのシリーズになるかもしれへん」と評するようになり[54]、シリーズ終盤には「おっさん、これ必ず続き物になるで。あと半年やったら、中村主水があんたの体ん中入って、これは一生もんやで」と発言した[56]。三隅の予想は的中し、藤田主演の『必殺シリーズ』は中断を挟みつつ1992年3月まで続いた[57]。『必殺シリーズ』に出演していた間、藤田はテレビへの出演を同シリーズ1本に絞り、あとは舞台に出るというスタンスをとった
必殺シリーズ終了後[編集]1988年はぐれ刑事純情派』シリーズの放映が開始。派手な演出がない作品だったことから藤田は当初ヒットしないという予感を抱いていたが、「なんや知らんうちに、長続き」し、18年間にわたって放映された[61]。藤田は『必殺シリーズ』と『はぐれ刑事純情派』シリーズとを比較し、「コメディアン」として起用された前者と「役者」として起用された後者とでは重みが違ったと述べている[62]

1998年から放映された『剣客商売』シリーズは、藤田の晩年を代表する作品のひとつとなった。藤田は『東海林太郎物語』や『その男ゾルバ』を上演した50代を自らの人生の中で最も充実した時期であったと振り返っている[63]が、50代のうちに60代で行うことを考えなかったため、この先に何をすべきか迷い、頭の中が真っ白な状態になったという。藤田はそんな中で『剣客商売』に出会い、迷いが消えたと述べている[64]

受賞[編集]賞詞[編集]1984年
  • 第39回文化庁芸術祭優秀賞 『東海林太郎物語・歌こそ我が命』
1987年
  • 第42回文化庁芸術祭優秀賞 『旅役者駒十郎日記・人生まわり舞台』
1990年
2009年
栄典[編集]2002年
  • 紫綬褒章
映画出演
  〇 出世武士道           〇 雲の上団五郎一座
  〇 てなもんや三度笠        〇 西の王将・東の大将

  〇 赤いダイヤ           〇 ホラ吹き太閤記
  〇 座頭市鉄火旅          〇 日本一のゴマすり男
  〇 大阪ど根性 どえらい奴     〇 運が良けりゃ
  〇 てなもんや東海道        〇 クレージー黄金作戦
  〇 闇の狩人            〇 衝動殺人 息子よ
  〇 日本一の裏切り男        〇 愛のきずな
  〇 わるいやつら          〇 炎のごとく
  〇 はぐれ刑事純情派        〇 野獣刑事
  〇 積み木くずし          〇 日本一のヤクザ男
  〇 椿三十郎            〇 大奥
  〇 鬼平犯科帳 劇場版                       etc.

 テレビドラマ・舞台・ラジオ・CMなど出演多数

                                       藤田まこと


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