この追悼サイトは、 万波 誠(腎移植の歴史に偉大な足跡を遺した名医)さまのために作成されました。
享年81歳 、誕生日 1940年10月19日、命日 2022年10月14日
※ 万波さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
万波 誠(まんなみ まこと、1940年10月19日 - 2022年10月14日)は、日本の医師。元宇和島徳洲会病院泌尿器科部長。
2022年10月14日、心筋梗塞のため岡山県備前市の病院で死去。81歳没[1]。
これに対しては、内科的治療を充分に行わずにネフローゼ症候群患者の腎臓を摘出した[3] 、HBs抗原陽性ドナーから持ち込まれたB型肝炎ウイルスがレシピエントの死因となった可能性は否定できない[4]、インフォームド・コンセントが適切に行われていない、倫理委員会の審査等の実験的・研究的医療に必要な手続きがなされていない[5]などの批判が起こった。
また移植をしない患者には冷たい、移植後に問題が起きると途端に素っ気ない対応をする、頑固で人の助言や忠告を聞こうとしない性格のために病気腎移植が繰り返された、などという万波に対する評価がある。一方で万波の人柄と技量に心酔する熱心な患者、支持者は非常に多い[6]。万波の素朴な人柄と患者と同じ目線で治療に望む姿勢は、2018年3月にNHK Eテレで放送された「ノーナレ」、また2018年7月に同じくEテレで放送されたETV特集「悪魔の医師か赤ひげか」での取材を通してみられる。「ノーナレ」においては、病理学者である難波鉱二広島大学名誉教授によりレシピエントへの癌の再発はほぼないこと、移植腎の生着率は死体腎移植よりはるかに高く生体腎移植に近いことを自らの調査研究結果を元に示している。「悪魔の医師か赤ひげか」において、米国の移植医療関係者へのインタビューで、病腎移植は欧米では普通に行われている治療であること、また「万波医師の話を聞いた時、いったい何が問題なのか理解できなかった」ことが明らかにされている。
2007年9月、厚生労働省はこれら病気腎移植が通常の保険診療ではなく診療報酬の不正請求に当たると指摘、万波の保険医登録を取り消す行政処分の検討に入る。そして万波と宇和島徳洲会病院の弁明を聴くため2008年2月に第1回聴聞会が開かれたが、病院側が開催手続きの不備を主張し実質審議に入れず、5月に予定されていた2回目の聴聞会は直前になって愛媛社会保険事務局が延期を決め、以降、聴聞会は開かれていない[7]。万波の修復腎移植により社会復帰を果たした患者、その他万波の治療を受けている患者、修復腎移植を評価している人達などが中心となった万波の支援者は、6万人もの病腎移植の継続を求める署名を集め厚生労働省に提出した。一方で杉浦正建元法務大臣を会長とした超党派議員により「修復腎移植を考える超党派の会」が結成され、修復腎移植の存続を目指す政治家の活動が開始された。
病気腎移植が明るみに出た2006年11月以降、日本移植学会幹部らが万波の病気腎移植を批判した際などに、万波に対して名誉棄損にあたる発言をしたとして、2009年9月、学会幹部ら4人を相手取り計4400万円の損害賠償を求める訴えを松山地裁に起こしている[8]。
2009年12月30日、宇和島徳洲会病院において、協力病院である広島県の呉共済病院とともに病気腎移植を臨床研究として再開した。術後の経過はドナー、レシピエントともに順調という[9]。
2015年12月6日、宇和島徳洲会病院において、国内13例目の病気腎移植を第三者間で実施、同時に厚生労働省に対し先進医療の申請を提出した。
その後、修復腎移植は09年に臨床研究として開始され、18年には先進医療として認められました。万波先生が行った修復腎移植は、慢性腎不全や透析困難症に苦しむ患者さんへの救助の思いから生まれ、卓越した先進性のある技術として進歩してきました。今はまだ症例を重ねることができていませんが、近い将来、きっと患者さんたちの福音になるものと信じています。
万波先生との出会いは2004年、宇和島徳洲会病院(愛媛県)が開設された時です。下着のシャツに、裸足にサンダル、白衣一枚、患者さんへの接し方と、あの何とも言えない笑顔が最高でした。
天才的な手技と圧倒的な症例数の故に06年10月、臓器売買・病気腎移植問題が発生しました。病腎移植とは、腎臓がんや動脈瘤などの治療のために摘出した腎臓を修復し、腎不全で困っている別の患者さんに移植する技術であり、今で言う修復腎移植のことです。当時、日本移植学会や厚生労働省は同院に調査に入り、メディアが連日のように報道しました。腎がん再発の懸念や、摘出しなくてもよい腎臓を摘出したのではないかなど、さまざまな論争がありました。その当時行われた病腎移植42症例すべてについて検証され、腎がんの再発はなく、棄てる腎臓を再利用でき、ドナー(臓器提供者)にも負担がなく、画期的な方法と海外からは賞賛されました。国内では今や先進医療として認められています。
先生は今年81歳。年齢を感じさせない体力があり、若かったです。格好も仕事に対する情熱も変わりませんでした。生活すべてを腎移植に注がれ、野菜づくりも犬の散歩も山登りも、すべて体力維持のためでした。知識も手術手技も世界の第一線にあり、目の前の患者さんに対峙され、難しい症例には、つねに挑戦者でした。常日頃の努力のなかから、修復腎移植も生み出されたのです。生涯現役でした。腎移植手技を「神の手」と称されるまで高められた先生の功績を偲びながら、ご冥福をお祈りいたします。
福岡徳洲会病院総長 貞島 博通
万波先生の突然のご逝去の報に接して、数十年来の思い出が胸に去来し、感謝の気持ちとともに、切なさを噛み締めております。
先生は医師の家に育ち、その心構えを刷り込まれ、宇和島市で初の腎移植手術を実施されました。米国留学を経て、宇和島徳洲会病院に移られた後、臓器売買事件と5学会との病腎移植論争、病腎移植42例の論文発表と米国での表彰など数々の出来事がありました。
徳洲会での修復腎移植臨床研究18例では“ブラックジャック”の腕前を発揮され、私は十数年にわたり貴重な経験をさせていただきました。また、当院で診療を共にした約2年間は、“速くテンポの良い手術。他院で断られた難手術を臆せずこなし、匙を投げられた患者さんを親身に受け入れ、月~土は毎日外来。早朝から晩まで患者さんに寄り添う診療”などを目の当たりにし、多くを学び得ました。「腎臓を修復して使えば、困っている患者さんへの恩恵は計り知れない」と、修復腎移植のパイオニアとして舵取りに尽力され、瀬戸内グループとともに財産(腎移植1,326件)を築かれるなど、我が国の移植医療に残した足跡は、歴史に永遠に刻まれるでしょう。
万葉集の中の挽歌「人はよし 思ひ止むとも玉鬘 影に見えつつ忘らえぬかも」を私の思いに代えさせていただきます。患者さんのために闘い続けられた心優しき医師の御霊に、お世話になったお礼を述べるとともに、築かれた当院の移植透析センターと泌尿器科診療を大切に継続する決意を新たにしております。どうか安らかにお休みください。
宇和島徳洲会病院泌尿器科部長(修復腎移植臨床研究総括責任者) 小川 由英
宇和島徳洲会病院
※注:このサイトは、万波誠に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年81歳 、誕生日 1940年10月19日、命日 2022年10月14日
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万波 誠(まんなみ まこと、1940年10月19日 - 2022年10月14日)は、日本の医師。元宇和島徳洲会病院泌尿器科部長。
経歴・人物[編集]
1940年岡山県の生まれ。岡山県立閑谷高等学校卒業。1969年に山口大学医学部卒業。1970年、愛媛県宇和島市立病院に勤務。1975年、アメリカ・ウィスコンシン大学留学、インドネシア出身のオランダ人外科医ベルツァー(Folkert O. Belzer)の元で腎臓移植を学ぶ。日本に帰国後の1977年、宇和島市立病院で初めて腎臓移植手術を行った。その後、これまでに約1,000件の腎臓移植手術を行ったと言われている。 2004年、新規開院した宇和島徳洲会病院に転職し現職となる。2022年4月、岡山県笠岡市立市民病院へ異動。2022年10月14日、心筋梗塞のため岡山県備前市の病院で死去。81歳没[1]。
病気腎移植問題[編集]
詳細は「病気腎移植#病気腎移植問題」を参照
臓器売買事件の報道が過熱する中、癌や肝炎、腎炎などの疾患に罹患している第三者から腎臓を摘出、これを腎不全患者に移植していたことが、調査により発覚した。いわゆる病気腎移植問題である。これに対しては、内科的治療を充分に行わずにネフローゼ症候群患者の腎臓を摘出した[3] 、HBs抗原陽性ドナーから持ち込まれたB型肝炎ウイルスがレシピエントの死因となった可能性は否定できない[4]、インフォームド・コンセントが適切に行われていない、倫理委員会の審査等の実験的・研究的医療に必要な手続きがなされていない[5]などの批判が起こった。
また移植をしない患者には冷たい、移植後に問題が起きると途端に素っ気ない対応をする、頑固で人の助言や忠告を聞こうとしない性格のために病気腎移植が繰り返された、などという万波に対する評価がある。一方で万波の人柄と技量に心酔する熱心な患者、支持者は非常に多い[6]。万波の素朴な人柄と患者と同じ目線で治療に望む姿勢は、2018年3月にNHK Eテレで放送された「ノーナレ」、また2018年7月に同じくEテレで放送されたETV特集「悪魔の医師か赤ひげか」での取材を通してみられる。「ノーナレ」においては、病理学者である難波鉱二広島大学名誉教授によりレシピエントへの癌の再発はほぼないこと、移植腎の生着率は死体腎移植よりはるかに高く生体腎移植に近いことを自らの調査研究結果を元に示している。「悪魔の医師か赤ひげか」において、米国の移植医療関係者へのインタビューで、病腎移植は欧米では普通に行われている治療であること、また「万波医師の話を聞いた時、いったい何が問題なのか理解できなかった」ことが明らかにされている。
2007年9月、厚生労働省はこれら病気腎移植が通常の保険診療ではなく診療報酬の不正請求に当たると指摘、万波の保険医登録を取り消す行政処分の検討に入る。そして万波と宇和島徳洲会病院の弁明を聴くため2008年2月に第1回聴聞会が開かれたが、病院側が開催手続きの不備を主張し実質審議に入れず、5月に予定されていた2回目の聴聞会は直前になって愛媛社会保険事務局が延期を決め、以降、聴聞会は開かれていない[7]。万波の修復腎移植により社会復帰を果たした患者、その他万波の治療を受けている患者、修復腎移植を評価している人達などが中心となった万波の支援者は、6万人もの病腎移植の継続を求める署名を集め厚生労働省に提出した。一方で杉浦正建元法務大臣を会長とした超党派議員により「修復腎移植を考える超党派の会」が結成され、修復腎移植の存続を目指す政治家の活動が開始された。
病気腎移植が明るみに出た2006年11月以降、日本移植学会幹部らが万波の病気腎移植を批判した際などに、万波に対して名誉棄損にあたる発言をしたとして、2009年9月、学会幹部ら4人を相手取り計4400万円の損害賠償を求める訴えを松山地裁に起こしている[8]。
2009年12月30日、宇和島徳洲会病院において、協力病院である広島県の呉共済病院とともに病気腎移植を臨床研究として再開した。術後の経過はドナー、レシピエントともに順調という[9]。
2015年12月6日、宇和島徳洲会病院において、国内13例目の病気腎移植を第三者間で実施、同時に厚生労働省に対し先進医療の申請を提出した。
その後の動き[編集]
2017年に病気腎移植を厚生労働省の審査部会が条件付きで先進医療として承認した[10]。「病気腎移植」の臨床研究をしている万波は宇和島徳洲会病院内にて「今回の結果が、腎臓を提供してくれるがん患者の増加につながれば、移植を待つ患者にとって大きな意味がある。」と喜び、がん治療で取り出した腎臓を別の腎臓病患者に移植することから「捨てるはずの腎臓なら、移植を受ける患者は精神的にも経済的にも負担が少ない。画期的だ。」と述べたという。その後、修復腎移植は09年に臨床研究として開始され、18年には先進医療として認められました。万波先生が行った修復腎移植は、慢性腎不全や透析困難症に苦しむ患者さんへの救助の思いから生まれ、卓越した先進性のある技術として進歩してきました。今はまだ症例を重ねることができていませんが、近い将来、きっと患者さんたちの福音になるものと信じています。
万波先生との出会いは2004年、宇和島徳洲会病院(愛媛県)が開設された時です。下着のシャツに、裸足にサンダル、白衣一枚、患者さんへの接し方と、あの何とも言えない笑顔が最高でした。
天才的な手技と圧倒的な症例数の故に06年10月、臓器売買・病気腎移植問題が発生しました。病腎移植とは、腎臓がんや動脈瘤などの治療のために摘出した腎臓を修復し、腎不全で困っている別の患者さんに移植する技術であり、今で言う修復腎移植のことです。当時、日本移植学会や厚生労働省は同院に調査に入り、メディアが連日のように報道しました。腎がん再発の懸念や、摘出しなくてもよい腎臓を摘出したのではないかなど、さまざまな論争がありました。その当時行われた病腎移植42症例すべてについて検証され、腎がんの再発はなく、棄てる腎臓を再利用でき、ドナー(臓器提供者)にも負担がなく、画期的な方法と海外からは賞賛されました。国内では今や先進医療として認められています。
先生は今年81歳。年齢を感じさせない体力があり、若かったです。格好も仕事に対する情熱も変わりませんでした。生活すべてを腎移植に注がれ、野菜づくりも犬の散歩も山登りも、すべて体力維持のためでした。知識も手術手技も世界の第一線にあり、目の前の患者さんに対峙され、難しい症例には、つねに挑戦者でした。常日頃の努力のなかから、修復腎移植も生み出されたのです。生涯現役でした。腎移植手技を「神の手」と称されるまで高められた先生の功績を偲びながら、ご冥福をお祈りいたします。
福岡徳洲会病院総長 貞島 博通
万波先生の突然のご逝去の報に接して、数十年来の思い出が胸に去来し、感謝の気持ちとともに、切なさを噛み締めております。
先生は医師の家に育ち、その心構えを刷り込まれ、宇和島市で初の腎移植手術を実施されました。米国留学を経て、宇和島徳洲会病院に移られた後、臓器売買事件と5学会との病腎移植論争、病腎移植42例の論文発表と米国での表彰など数々の出来事がありました。
徳洲会での修復腎移植臨床研究18例では“ブラックジャック”の腕前を発揮され、私は十数年にわたり貴重な経験をさせていただきました。また、当院で診療を共にした約2年間は、“速くテンポの良い手術。他院で断られた難手術を臆せずこなし、匙を投げられた患者さんを親身に受け入れ、月~土は毎日外来。早朝から晩まで患者さんに寄り添う診療”などを目の当たりにし、多くを学び得ました。「腎臓を修復して使えば、困っている患者さんへの恩恵は計り知れない」と、修復腎移植のパイオニアとして舵取りに尽力され、瀬戸内グループとともに財産(腎移植1,326件)を築かれるなど、我が国の移植医療に残した足跡は、歴史に永遠に刻まれるでしょう。
万葉集の中の挽歌「人はよし 思ひ止むとも玉鬘 影に見えつつ忘らえぬかも」を私の思いに代えさせていただきます。患者さんのために闘い続けられた心優しき医師の御霊に、お世話になったお礼を述べるとともに、築かれた当院の移植透析センターと泌尿器科診療を大切に継続する決意を新たにしております。どうか安らかにお休みください。
宇和島徳洲会病院泌尿器科部長(修復腎移植臨床研究総括責任者) 小川 由英
宇和島徳洲会病院
※注:このサイトは、万波誠に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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